安政五年十一月に、番家一五棟(各一五坪)の新設が申請され(市史六七頁)、ここに同心・足軽・勤番人が詰めることになり、イシカリに一五カ番所を設置することが予定された。
番所の前身となったのは阿部屋の番家で、安政二年二月の段階ではツイシカリ・ハッサム・サッポロ・オソウシ・コトニ・ユウバリ・チュクヘツブトの七カ所に存した(市史二一頁)。特にツイシカリの番家はイシカリ・イザリブト(漁太)間の中継地で休泊所をかね、桁間一七間半、梁間五間半の大きなものであった。またここには、板蔵・茅蔵が七軒あった。ただし、番家の建物は、安政四年三月に焼失している(松浦武四郎 丁巳日誌)。
番所はこれらの建物の位置を一部ひきつぐと同時に、番所の数をふやし、広範囲な支配の実効をはかるものであった。いまのところ、マクンヘツ・トクヒタ・ホリカモイ・ワッカオイ・ヒトエ・ツイシカリ・上トウヤウシ・上川チクヘツ・中川トツク・ユウバリ・サッポロ・ハッサムなど一一カ所の番所名を、史料からひろうことができる。
安政五年十一月の「石狩場所改革方取計之義申上候書付」(市史六七頁)によると、たとえばトクヒタ・ワッカオイ番所では、船改の儀をおこなうこととされ、サッポロ番所は漁時限りに、ハッサム・ツイシカリ・上トウヤウシは詰切りにし、近隣の漁場の取締りもおこなうとされている。また、アイヌの「撫育」のために、特に上川チクヘツ(同心、中西清三)、中川トツク(勤番人)、ユウバリ(同心、広田八十五郎)、サッポロ(足軽、亀谷丑太郎)を新設し、十一月から三月まで駐在することになっている。アイヌの人別帳は、以上の四番所ごとに編制されるようになった。これらは軽物交易をおこなった番屋でもあった。
安政五年八月には、秋の鮭漁にそなえ表1のような場所割がなされている(五十嵐勝右衛門文書より作成)。これによるとまず第一に、すでにトクヒタ・ヒトエ・チイシカリ・上トウヤウシの各番所がみられ、番所の設置は早くからなされていた。一方では、ホリカモイなど番所ではなく、在住派遣の「御掛」の所もあり、これ以降、番所が新設・拡充されていった。第二に、番所には同心・足軽、「御掛」には在住が担当となっており、番所はイシカリ役所の出先機関としての位置付けがなされている。また番所への同心・足軽の派遣は、先の十一月の「書付」の構想が、すでに着手されていたことも判明する。第三に、在住を役人の補助として大幅に利用していることである。十一月の「書付」にも、「漁業中役人・勤番人共不足ニ付、在住次三男幷家来等雇」といわれているが、在住の次三男ではなく、在住自身が利用されている。役人の不足を在住で補うのは、この他にも多くみられ、ここにイシカリ在住の特異性があった。
表-1 役人の場所(番所)割 |
場所 | 氏名 | 身分 |
ホリカモイ御掛 | 金子八十八郎 | 在住 |
永島玄造 | 在住 | |
ワッカヲイ御掛 | 中村兼太郎 | 在住 |
天野伝左衛門 | 在住 | |
トクヒタ御番所 | 中西清三 | 同心 |
木村源次郎 | 同心 | |
ヒトエ御番所 | 広田八十五郎 | 同心 |
有田精治郎 | 同心 | |
チイシカリ御番所 | 桐谷多兵衛 | 足軽 |
上トウヤウシ御番所 | 武川勇治郎 | 足軽 |
御本陣テツキ | 西村清八郎 | 足軽 |
〓 同 | 信沢順之丞 | 足軽 |
万延元年(一八六〇)八月の永住出稼一同への申渡請書によると、イシカリ川を下りオタルナイ・アツタに向かう磯船・保津船は、ホリカモイ番所へ届けること、マクンヘツ・ワッカオイ・ホリカモイ番所で改めをすることなどが述べられている。番所の役割は、ここでは収納高の改めと切手の発行、抜荷の防止など、イシカリ役所の財政と流通にかかわる根幹の役割がみられる。
このように番所が増設され、その役割が重大なことが、同心・足軽の増員の要因ともなっていた。同心・足軽は、それぞれ管轄・担当の番所があった。安政五年八月二十一日に、シビシビシのテリヤンケが、マクンベツ番所前にて溺死する事件があったが、この番所の管轄は同心の中西清三・木村源次郎で、死体を発見次第、届けるよう布達を出している(市史一三二頁)。