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平山謙二郎と一瀬紀一郎

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 堀、村垣両グループの本隊は、いずれも松前(福山)から日本海岸にそって船または陸路で北上、イシカリを経てカラフトに渡ったが、本隊を離れ箱館におもむき、そこからユウフツ、千歳を経てイシカリに至り、さらにカラフトへ向かった人々がいた。
 日米和親条約にもとづき、安政二年から箱館港でアメリカ船へ薪水食料石炭等を供給することになり、事前視察のためペリー艦隊は安政元年四月十五日箱館に入港した。応接にあたった松前藩は、三厩(青森県)まで来ていた堀、村垣調査団に支援を求め、堀一行のうち徒目付平山謙二郎、小人目付吉岡元平、村垣一行から支配勘定安間純之進、同下役吉見健之丞、儒者役武田斐三郎等が派遣された。交渉をおえた平山等は五月十一日箱館を出発、太平洋岸沿いにすすみ、ユウフツから内陸に入って千歳を経てイシカリに着いたのは二十日。ここで本隊とおちあうが、千歳川を下る道すがら平山の詠んだ詩が『省斎遺稾』にみられる。文中の「阿薩」は千歳市長都、「伊佐里太」は恵庭市漁太だろう。
  省斎遺稾
 
  五月十九日、発舟干阿薩沿(沼か)到伊佐里太、岸頭梨花一簇似雲、極目無人煙
梨花五月満溪明 異境風光慣不驚
暮雲千里人煙絶 日落荒山飢鳥声
  千歳川舟中
儻識青山葬地  何論前路難易
喪元溝壑微言  男子平生素志

 平山謙二郎は文化十二年(一八一五)福島県三春の生まれ、父は剣道師範黒岡活圓斎、江戸で漢学、国学を学んだ。諱は敬忠、省斎を号とした。幕吏平山源太郎の養子となって嘉永四年(一八五一)徒目付に任じ、安政元年(一八五四)三月二十四日松前蝦夷地御用を命じられた。アメリカペリー艦隊浦賀来航に際し海防外交用務にあたった実績がかわれてのことという。蝦夷地調査をおえて安政元年十一月江戸にもどってからも外交用務に従事するが、安政の大獄で閉門にあい、ゆるされて文久二年(一八六二)十月箱館奉行支配組頭(勤方)を命じられ、家族とともに箱館に着任、慶応元年(一八六五)九月まで任にあった。この間、元治元年(一八六四)三月箱館奉行小出秀実に随行して再びイシカリに至り、次の詩を詠んだと『遺稾』にある。
  甲子三月念三、陪鎮台小出君、乗火輪船、巡石狩
旭日輝輝旗影紅 海山千里渺茫中
神龍高吼波間躍 躍過扶揺九萬風

 謙二郎は、イシカリに足をはこんで多くは書き残していないが、彼に同行した一瀬紀一郎が道中の光景を適確な筆で画き伝えている。すなわち写真1、2は市立函館図書館所蔵の『蝦夷廻浦図絵』(大正八年写)によるもので、各図とも表題はないが、これを調べた河野常吉(『北海道史』の編纂者)の考証をもとに、平山、一瀬等がイシカリで注目した光景をうかがうことにする。
 写真1 イシカリ 河野によると「石狩運上屋ノ景ニテ、河岸ニ魚見台アリ。川ハ石狩川ナリ。当時、東蝦夷地各場所ニテハ会所ト称シ、西蝦夷地各場所ニテハ運上屋ト呼ブ」とあり、阿部屋の元小家と魚見台を構図の中心にすえている。魚見台依田次郎助が物見の台と呼び、海辺の舟の通路を見るものとし、『協和私役』の著者はこれにのぼって四方を遊覧したと書いている。旅人には興味をひいた建物だったようだ。高札場もよくえがかれている。

写真-1 イシカリ
一瀬紀一郎 蝦夷廻浦図絵 市立函館図書館蔵

 写真2 シップ、モーライ 河野は「シップ漁場並ニモーライ附近ノ景」という。右側手前の魚見台は前図と別個所のものだろう。それが建つところがシップなのか。松浦武四郎は『西蝦夷日誌』で「番や、茅ぐら、板ぐら、弁天」があると書いているが、魚見台についてはふれていない。安政四年鳥居存九郎蝦夷紀行』では、ここにもあったとする。写真の中央に帆掛船が三艘浮かんでいるが、そのあたりがモーライ浜の近くにあたるのだろう。

写真-2 シップ、モーライ
一瀬紀一郎 蝦夷廻浦図絵 市立函館図書館蔵

 この『図絵』は松前から千歳、イシカリを通りソウヤまでの二巻であるが、さらにその続きに相当するのが、大日本古文書幕末外国関係文書附録に収載されている『甲寅蝦夷巡検図』であろうといわれる。
 画家一瀬紀一郎会津藩士、天保七年(一八三六)生まれだから、この時一七歳だった。帰一、奇逸ともいい、暁川を号とした。平山は「従予入蝦夷」と述べているから、紀一郎は平山の従者としてイシカリに来たのであろう。安政六年根室、網走地方が会津藩に分領されると藩士として在勤、箱館戦争では榎本軍に身を投じた。明治をむかえ開拓使が置かれると、札幌に赴任し少主典、大主典にすすみ、室蘭開発をすすめたり茅部郡長を勤めた雑賀重村はこの人である。
 平山、一瀬は本隊が見られなかったユウフツ─イシカリの内陸低地帯を渉査し、実見しえた別働隊の一例である。しかし、ほかにも内陸に足を踏み入れた人々がいた。『公務日記』安政元年六月十四日条によると、猪俣英次郎、安間純之進、渡辺啓之助の三人が本隊を離れ、一足先にカラフトからソウヤにもどり、西蝦夷地再検分のためイシカリ川上を廻ると記されており、さらに同日記巻二の巻末には、堀井鉄次郎が加わり四人が、六月二十三日カラフトのクシュンコタンを出帆、ソウヤに渡ろうとしたが船を流されリシリ島に落船、ここから同月二十九日ソウヤに着き、「西地再見分、石狩川上迄」と書かれているので、あるいは天塩川を遡るなどして、イシカリ川上流に至り、イシカリ川を下るという内陸調査を実施したかも知れないが、残念ながらその記録は見出せない。
 また、村垣グループの普請役間宮鉄次郎らは本隊より先にカラフトに渡り、東海岸タライカまで調査して「七月二日ソウヤ出立、ユウフツ越と申道筋を参り、日数廿二日にして昨廿三日無滞箱館表え着仕候」(安政雑記)と、書き送っているから、帰路も本隊をはなれ、イシカリにいたり、千歳越ルートにより箱館に達した人々がいたことが知られる。さらに、通詞名村五八郎もイシカリからユウフツにぬけ、風待ち逗留中の村垣本隊と、閏七月二十六日ムロランで合流しているから、調査団の中には千歳越ルートを体験した人々は、けっこう多かったのだろう。