第二回目は安政三年(一八五六)で、この踏査行は『竹四郎廻浦日記』に記されている。第一回目より一〇年後である。五月六日オタルナイより海岸伝いに陸路イシカリに着す。
〈イシカリ〉嘉永四年(一八五一)七月の長雨で出水し、イシカリの建物等すべて流され、運上屋、勤番所等は浜手に移動して昨年ようやく普請が完成した。元小屋と呼ばれる運上屋(梁八間半、桁二七間半)、勤番所(梁六間半、桁一二間)のほか、武器蔵(梁一間半、桁七間)・備物蔵・秋味帳場各一棟、板蔵二〇棟、茅蔵一二棟、テフキ(手葺の蔵か)二棟、ユウフツより出稼小屋一棟(梁七間、桁一五間)、板蔵七棟、雇蝦夷小屋(六〇坪)、神社、弁天社、稲荷大明神(妙亀法鮫を合祀)、龍神社等々、すべて見事な普請である。このイシカリ勤番所には、箱館奉行所の調役並、下役、雇医師、同心、足軽の各一人の計五人の幕吏が勤番している。イシカリ場所にいま属するアイヌの人たちは一六五戸、人別六七〇人(男三二五、女三四五)、文政期引渡しの時(一八二一)は三三二戸、一一五八人(男五九二、女五六六)であったという。
五月八日、隊長の箱館奉行所支配組頭向山源大夫、手付松浦武四郎、イシカリ詰合下役立石元三郎にイシカリ番人の甚左衛門、それに案内のアイヌ八人、総勢一二人をもってイシカリを出立し石狩川を遡上した。
〈ハッサム〉ハッサム川の注ぎ口、幅およそ七間、遅流で深い。この川はイシカリ十三場所の一つで昔は番屋があり、その運上金四〇両、別段一〇両、差荷物代金四両であった由。この川筋に夷人小屋あり、乙名イソウクテ、小使コモンタが支配する。聞書によってこの川筋を記しておくと、川上二里一〇丁余のポンハッサムプトで二股となり、左がポンハッサム川、右の本川をたどるとチラエウツなどの諸川が右手より注ぎ、オタルナイの上に当たり、きわめてよろしき平地という。
〈サッポロプト〉サッポロ川、今称するフシコサッポロ川の注ぎ口でサッポロの入口、川幅九間で深い。小休所一棟あり。この川筋も夷人小屋が多い由で、乙名モニヲマ、小使シリコフツネが支配する。運上金は金四六両、別段金二両二分、上乗差荷物代金四両。上サッポロはその運上金三六両永五〇文、乙名クウチンコロ、小使モリキツが支配する。このフシコサッポロ川の川筋を聞くに、川口より一里半ほどで二股、左をナイボ川と呼び、夷人多く乙名ニシトンレ、小使ケセオマが支配する由。源はツイシカリ川筋と並び来るという。右手の本川をシノロ川という。秋味場所があり、運上金三八両一分、別段上乗荷物代金一両で、乙名イレレシユ、小使イシヨランが支配する由。シノロ川をさらに七、八里上ると屈曲婉転して小川が左右に多く、左の方にシャクシコトニ、ノシケコトニ、コトニの川が並び、また本川の右の方にチケウシベツ川があり、これら四川ともその源に沼がある由。この辺は平地でシコツ岳に近く、また東蝦夷地ウス領へ越えるという。
〈ビトイ〉昼所一棟(梁五間、桁三間)、漁小屋ならびにユウフツ出稼小屋あり。
〈ツイシカリプト〉ツイシカリ川(旧サッポロ川、後の豊平川)の川口で川幅およそ七間、遅流で深い。川口の手前に番屋一棟(梁五間、桁一三間半)、板蔵五棟、茅蔵二棟、雇夷人小屋一棟、ユウフツ出稼漁小屋一、板蔵一、茅蔵一棟ずつ、ならびに弁天社、稲荷社がある。この後ろに夷人小屋七、八軒、当時乙名ルヒヤンケ、小使イカレトメト(イカレキナ)が支配する。この番屋の運上金は金三七両、別段差荷物代金三両二分。この川筋を聞くと、一里余川上に沼様のタウシナイがありエベツプトに近いという。さらに上りホロナイ、スルフの両川を経て二股があり、右が本川、左はアシュシペツで水源はシママップの後ろにあるという。本川を少し上ると上ツイシカリで、番屋一棟(梁三間、桁五間)、板蔵一棟がある。この運上金五五両、別段差荷物代金一〇両の由。夷人小屋多くあり乙名イクシノカアイノ、小使イハンケが支配するという。これより先は一路サッポロ岳に至り、その辺に温泉あり、さらにウス領に越えるという。
翌九日、一行はツイシカリを発し、シノツ、エベツプトを経て石狩川をさらにさかのぼり、雨竜川に転じてルルモッペへ抜けている。