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イシカリ・サッポロと水戸藩

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 諸藩が一斉に蝦夷地調査を始める安政三年、斉昭は逆に内願はもとより警衛開拓の建言さえ差しひかえ、江戸で在府の箱館奉行らと内々の交渉をする方法に転じた。その結果、安政期にイシカリ・サッポロ水戸藩はどのように結びついていくのだろうか。
 両者の交渉によって実現した第一は、水戸藩の考え方に同調する者を蝦夷地へ送り込むことだった。その代表は松浦武四郎であろう。水戸藩の推挙により箱館奉行所に採用され、安政三年から五年にかけて全島調査を続け、イシカリの歴史に大きな足跡を残したことは各章に詳しい。安政元年斉昭に蝦夷地の急務五カ条を建言した肝付七之丞(兼武)はイシカリ詰足軽に採用され、明治になると名を大伴遊叟と改め、開拓使の幹部として札幌本府の建設にあたった。それらの多くは領民でなかったが、医師として来た佐藤民之助は水戸の人、イシカリのアイヌ種痘を接種し危難を救ったと伝えられる。その結果として北地の詳細な新情報が刻々と水戸にもたらされるようになった。後述の勝右衛門も藩との恒常的な文通の中で、箱館奉行所吏員の往来、その世評、外国船の去来、交易等を毎便書き添えることを忘れなかった。水戸弘道館の訓導石河明善の日記安政五年二月二十六日条に、当時のイシカリの状況等を次のように書き留めているから、イシカリの話題が水戸市中でささやかれたことがあったのだろう。
追々蝦夷開け、壱ケ所にても七百人も居候所有之、石狩辺尤盛也。近来種痘を教にて、痘難を免れ候よし。蝦夷は痘病なれは、毎度死に極候よし、此度より其患なし。

 第二は那珂湊商人を軸とする蝦夷地産物の流通活動を支援したこと。イシカリと水戸の間を那珂湊商人の手船や船、箱館松前商人の船々がいききし、水戸へを主とする蝦夷地産物を運んだ。他国者の喜三郎にさえ水戸藩の名目を許し、流通の拡大を目論んだのである。
 第三は大津浜グループ(第四章第二節参照)をイシカリに送り込んだこと。天保年間の水戸藩松前藩の場所貸借交渉は形こそ変わったが、ここにいたって実現したとみてよい。その代表格を勤めた勝右衛門は、イシカリ漁業に参入して特権的出稼人の地位を得、さらに蝦夷地内国化に向けての地域形成の推進役を担った。しかし、それが場所請負人としてではなく、あくまでも出稼名目だったこと、しかも、もっと生産力の高い場所を望んでいたため、強い不満が水戸藩内にあったことを石河明善日記安政五年八月十六日条は次のように伝えている。
蝦夷地場所の事、河津三郎太郎引受尽力の処、此迄の所大内清衛門先年見候て不宜と申に付、願直にいたし候所、此迄の処一万二三千両、今度の所は七千両計、其上河津大に不平にて、最初より極上と申候も如何に存、次通りを見立候也。夫か不宜とならは一応御懸有之候処、又見立ふりも有之、又々宜所も御座候所、御一手にて御取計にては、以来御構不申抔来る。先年清衛門参りたる節とは雲泥の相違にて誤りたる由也。

 第四はこれら領民のイシカリ進出に、水戸藩としてどう対応すべきか、実地調査を行ったことがあげられよう。
表-2 安政期 イシカリ・サッポロ水戸藩のかかわり
事項内容参照個所
(1)人材を送る水戸藩の考えに同調する人材が蝦夷地に送りこまれ、イシカリ・サッポロを往来。松浦武四郎がその代表。
これらの人々から新しく詳しい情報が水戸へ届くことになった。
松浦については各章にあるが、特に第2章3節(2)
(2)流通の拡大江戸との結びつきが強まり、太平洋廻船の強化、那珂湊商人の活躍。イシカリ漁業経営に那珂湊商人の支援、イシカリの水戸、江戸への移出拡大。喜三郎への支援。第4章2節(3)
(3)大津浜グループの進出イシカリ川のエベツブトより上流域の開発権、そこから日本海岸への新道開削、そのためのアイヌ差配権、イシカリ浜及び下流での鮭漁経営、イシカリの初代浜名主、同湊案内役。第4章2節(1)
      3節(1)(2)(3)
(4)藩士の実地調査水戸藩として領民のイシカリ進出を調査、対応策をねる。藩士生田目弥之介と大津浜グループ4名による。イシカリ滞在は安政5年10月7日から12日まで。第3章2節(1)