ビューア該当ページ

移住の自由

750 ~ 752 / 1039ページ
 イシカリ改革は長年の場所請負制を廃止し、それに代わる直捌を柱とした箱館奉行による土地住人の直接支配を実現することにある。そのために、どのような施策があらたに試みられたのだろうか。次に、新しい住人の創出、漁業以外の産業への配慮、生産物の流通対策の三点についてみることにする。第一点のうち、アイヌについては第六章をもうけるので、ここでは改革にともないいわゆる和人の進出をいかにすすめ、その掌握をどのようにはかったかについて取り上げる。
 まず、箱館奉行は、請負人が強く抵抗してきたイシカリにおける和人の定住を許し、出稼を積極的に奨励することにした。『札幌沿革史』はこれを〝移住の自由〟と呼ぶ。安政五年四月十三日、阿部屋伝治郎にイシカリ場所請負の差免を令し出稼人となることを命じ、この日から一漁場経営者にしてしまう。だが阿部屋が従来直接漁獲にたずさわってきた引網は原則としてすべて継承できたから、好条件の網場をひきつづき経営するイシカリ最大規模の網持出稼人(第三節参照)という地位を確保した。あわせて本陣と改称した元小家を引き継ぎ、本陣守となり、人馬継立差配と住人からの願書、届書の受継役も阿部屋に残った。
 一方、アイヌの使役をはじめ和人の移住制限など、従来実質的に行使してきた場所請負人の権限を喪失する。これにともない阿部屋は請負の運上金仕向金の上納、備米積替え、通行屋や道路の修理建築等をしなくてすむが、これまでのようにアイヌを勝手に労役に使えなくなり(本陣で毎月交代の八人のみ許可)、出稼人からの二八役、三七役の取り立て、軽物売買も不可能となった。
 四月十三日、阿部屋のほか五人へ、表1のように箱館奉行所で申渡しがあった。これをみると、阿部屋、山田、孫兵衛、吉五郎(梶浦屋の名代)の四人は改革直前、すでにイシカリで何らかの形で鮭漁にたずさわっていた者で、その漁業既得権の継承を認められた。恵比寿屋はかつてイシカリ十三場所の内カバト、ユウバリ等を請負ったことがあり、当時は西蝦夷地のオタルナイ、フルビラ、東蝦夷地ではホロベツ、ムロランの場所請負人。松前人としての市民権を持っていたが、安政四年奉行所の意向に添い、蝦夷地永住を願い出たり、イシカリ場所に隣接するオタルナイ山道(現国道五号の祖型)を開削する等、イシカリとのかかわりは浅からぬものがあった。
表-1 イシカリ改革の発令
被命者内容経歴
阿部屋伝次郎請負差免、出稼申付(漁場割渡)
人馬継立差配はこれまで通り
イシカリ場所請負
山田文右衛門出稼はこれまで通り
見世(店)開設(サツホロ辺)
イシカリ場所出稼(浜、川)
ユウフツ、サル、アッケシ
場所請負
恵比寿屋半兵衛小休所取建
見世(店)開設(サンタラベツ辺)
オタルナイ、フルビラ他
場所請負
勝右衛門漁業出稼申付(場所見立、漁番家取建)
新道切開目論見(ルヽモッペ越)
新規参入
孫兵衛稼方はこれまで通りイシカリ場所出稼(浜)
吉五郎稼方はこれまで通り梶浦屋五三郎の名代
イシカリ場所出稼(浜)
村山家資料』(新札幌市史 第6巻49、50頁)による。いずれも安政5年4月13日付

 これら六人はいずれも改革後、網持出稼層の中枢的働きをするが、そのうち三人までが場所請負人で、彼らの力を借りずに改革の遂行はむずかしかったことを示している。