琴似ほか四カ村には当初戸長の配置が一人であったが、十五年七月一日に琴似・発寒村に一人、上・下手稲村に一人の配置にかえられた。また十六年四月に下手稲村を分け山口村が設置されたので、上手稲、下手稲、山口村の三村に一人の戸長配置となった。山口村は戸長役場の所在した上手稲村まで四里余りもあり、戸数も百余戸になったことを理由に、十八年三月に生田春正宅に戸長役場派出所が置かれ、筆生一人が常駐することになった。
豊平・上白石・白石・平岸・月寒村の戸長は十七年頃に片倉景範から藤田盛に交代した。藤田盛は白石村への移住士族の一人のため、五カ村の戸長役場は白石村に移転となったが、白石村三番地に家を借り、ここで事務の取扱を行っていた。しかし豊平、平岸、月寒三村との距離がありすぎ、不便ということで、十七年四月十九日に豊平村四番地の借家へ移転願が出されている(市史 第七巻九七二頁)。この出願の後、間もなく移転をみたようである。
札幌、雁来、苗穂、丘珠、篠路五カ村の戸長は十六年に坂野元右衛門から小熊善右衛門に交代する。元右衛門は庚午一ノ村組頭以来、苗穂村の百姓代・伍長・副戸長など数々の公職に尽してきた。次の小熊善右衛門も札幌村の組頭・名主・副戸長・村用係などをつとめてきて、両人はいわば〝たたきあげ〟の在地役人と評せる。他の戸長がみな士族出身であったのに対し、農民出身の両人は、書算こそはできたであろうが苦労も多く、家業の開墾の時間を取られ、辛苦を重ねたものと思われる。なお上記戸長役場には、福移に入植した福岡県士族(開墾社)が移住士族の取扱を受けたのにともない、筆生を派遣した戸長役場派出所が十七年四月二十一日に設置された(札幌県布令全書)。