早山清太郎は、前巻において記されているように琴似村で水田を開いたのち万延元年(一八六〇)篠路村に転居し、ここでも稲作を続け札幌地方稲作の鼻祖とされる人である。のち水害のため畑作に転じた。篠路村の草分けといわれる早山清太郎は、開墾・営農の模範であるだけでなく、新道の開削、移民誘致、名主その他の公職経験などにおいても功績があった。
明治十五年二月東京で開催された米麦大豆煙草菜種共進会に向けて、十四年十二月選抜された道内の農事勉励有功者名が、上記二名も含め『米麦大豆菜種煙草共進会書類』(道文四五五三)にまとめられている。その内から二、三の人をあげてみる。
苗穂・札幌・雁来・丘珠・篠路五カ村戸長坂野元右衛門(福井県今立郡大屋村出身)は万延元年(一八六〇)と慶応三年(一八六七)にそれぞれ福井藩及び庄内藩の移民取締として来道、茅部郡野田生村と浜益郡阿弥陀村において耕地を開いた経験をもつ。明治三年開拓使の召募に応じて苗穂村に移住し開墾営農に従事し、耕地一九町三反歩を所有するまでになった。十一年ドイツ種大麦、十二年米国種白小麦、トウモロコシの種子を開拓使より得て播種したところ、反当たりで大麦二石、小麦一石八斗、トウモロコシ三石の収穫をあげた。これは品位も含め内国種の及ばない好成績であったため、五村の村民を集めて洋種の栽培をすすめた結果、十三、十四年とも高い収穫を得、「村民等ノ歓喜抃舞(べんぶ)啻ナラス、是皆元右衛門勧奨ノ力ニ頼ルモノナリ、其功績実ニ賞スヘシ」と記されている。
対雁村渡辺寅吉は養父の金助(宮城県黒川郡富谷村)が明治四年募移農夫として移住し、三カ年間扶助米を得、最初荒蕪地六〇〇〇坪の割渡しを受け、およそ表8のような開墾営農の経過をたどった。寅吉は明治十三年対雁江別両村用掛となる。
表-8 対雁村渡辺寅吉の開墾営農経過 |
年度 | 墾成反別 | 作物及び作付反別 | 収 穫 | その他 |
四 | 二畝 | 荒蕪地六〇〇〇坪割渡し、労力男一人女二人 | ||
五 | 五反 | 穀菜等播種、官の下渡し大豆及び故郷より持参大豆 | 二種ともほとんど無収穫 | 農事出精に付農具数種下付 |
六 | 二反 | 前二種大豆及び同村立花由松の大豆種子 | 立花の大豆良 | 移民二一戸中一九戸雁来村へ移転 |
七 | 一町三反 | 大豆反当一石五斗 | 寅吉が当家の養子となる | |
八 | } 六反 | 梨・りんご・あんず・桃苗一〇本 | ||
九 | ||||
十 | } 七反 | 梨・りんご・あんず・梅・桜・桃苗二五本 | ||
十一 | 荒蕪地七〇〇〇坪払下 | |||
十二 | } 四反 | 雁来村吉岡弥右衛門の大豆を播種 | ||
十三 | 第二回農業仮博覧会へ大豆出品 | |||
十四 | (およそ四町歩) | 大麦反当一石五斗、大豆反当一石二斗、小豆反当一石 | 内国勧業博覧会へ大小豆・大麦出品 |
これによれば、渡辺家の作付の中では大豆作に重点が置かれているようにみえる。大豆の品種を色々と試作している。同村の立花由松の履歴によれば、慶応三年の自費移住者で大小豆をよく作り、大豆は札幌村木邑吉太郎より求めたものを毎年播種したという。作物品種の農民間の伝播は開拓地においてもひんぱんであったようである。四町歩というおよその一農家の耕作面積と作付内容を獲得するのに一〇年間がかかった勘定である。
次に同じ対雁村の新家孝一(養父春三は東京府神田区)の場合をみてみる。孝一は明治七年自費移住し、十四年対雁江別両村戸長となった(表9)。
表-9 対雁村新家孝一の開墾営農経過 |
年度 | 墾成反別 | 作物及び作付反別 | 収 穫 | その他 |
七 | 一町二反 | そば・蔬菜(一反)、菜種九反、小麦一反、大麦一反 | 農夫一名と共に 菜種は同村本間勇之助の種子 | |
八 | 桑苗五〇〇本、大豆五反その他、梨・りんご・あんず・桃苗一〇本 | 大豆五石八斗、菜種八石、大麦一石七斗、小麦一石一斗 | 大豆は同村立花由松の種子 | |
九 | 養蚕を試験 | |||
十 | 二反三畝 | この年より十四年まで養蚕、梨・りんご・梅・あんず・桜・桃苗二七本 | 黄繭を札幌紡織場へ出荷 | |
十一 | 西洋豌豆二〇歩 | 豌豆六斗五升 | 第一回農業仮博覧会へ七種出品 | |
十二 | 堆糞肥料を施す | |||
十三 | 第二回農業仮博覧会へ八種出品 | |||
十四 | (三町八反五畝) | 大豆反当一石二斗 大麦反当一石四斗 | 内国勧業博覧会へ大小麦、大小豆出品 米麦その他共進会へ大麦、大豆出品 |
移住初年に一町二反の開墾播種とあるが、とすればその土地は前年雁来村へその大方が移転した湧谷移民の跡地かもしれない。開墾初年に蕎麦や菜種をまくのは一つの常道らしく、よくとれるのと現金収入がめあてであった。穀菽、養蚕、園芸とやや経営に広がりが見える。十二年に堆糞肥料を施与とあることや各種博覧会等への出品も明治十年代における札幌周辺先進農家の一つの特徴を示しているのでなかろうか。
さらに、十三年の農業仮博覧会出品物の内大豆が一等賞を得たが、この原種は上記渡辺寅吉の種子であり、十四年には江別村の山内茂助が用いて多収を得たという。
以上のような模範的な農家はそれ程多くはなかったかもしれないが、この米麦大豆煙草菜種共進会に推薦され、また出品した開拓農家の中にはそのすぐれた成績によって多数の人が褒賞を得た。全道二一三人の出品者の内札幌区(村数一二)は大麦一九人、小麦一四人、大豆二六人、菜種一人計五九(ママ)人とある。授賞人名調によれば、一等二等三等の五人はすべて有珠郡紋鼈村の出品者であったが、四等賞(賞金一五円)に丘珠村許士泰(帰化清国人の一人。明治九年山東省より梁維升ら一〇人が入地。十二年許士泰と范永吉の二人が帰化)が入賞。五等賞に琴似村大磯寅之助、六等賞に月寒村中山久蔵、苗穂村山口和三郎、円山村金野惣七、上手稲村鈴木信一、内馬場仲政、丘珠村安藤彦松、佐藤石之助、苗穂村坂野元右衛門、山鼻村渡辺卯三郎、七等賞に対雁村渡辺寅吉、柳浜セヤッテヲッカエ、江別村樋口千代吉、山内茂助、雁来村伊藤清次郎、篠路村沢田福松、早山清太郎、札幌村原伝左衛門、小熊善右衛門、丘珠村范永吉、琴似村白木源蔵、佐々木多助、山鼻村笹沼寅五郎、守谷民治の名前がある。
写真-9 許士泰