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遊廓地の決定

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 札幌の本府建設の過程で、官庁や諸施設の建設と同時併行して建設されたものに遊廓がある。近隣の小樽・石狩には、近世末までに「売女小屋」がすでに存在し、春の鰊漁や秋の鮭漁の時には人口がふくれあがったといわれている。開拓使は、これらの「売女小屋」の営業許可を追認する形で、明治三年(一八七〇)十月、北海道西部各郡の本陣・通行屋に対し「飯盛女」を抱え置くことを許可する達を出した。
 この「飯盛女」許可の達から二カ月後の同年十二月、本府建設の本格的決定を意味する一〇カ条からなる伺書が開拓権監事西村貞陽ら三人により上局へ提出された。このなかには、北海道西部各郡の金銭の出納、移民の入植、米塩噌に関する件、判官邸建設等の項目と並んで最後の項目に次の文言が載っている。
 西部各郡出稼ノ隠売女ハ一切廃絶ニ相成更ニ遊女屋又ハ飯盛ノ名義ヲ相唱都テ永住ノ者ニ抱女為致候得ハ都テ御取締被相立其地潤沢ノ基ニ可相成ト奉存候間西地御管轄中旅店へ飯盛女御差免相成候様仕度候事
  但遊女屋ハ小樽ニ相限リ其他ハ都テ飯盛名義相唱度事

(府県史料 国公文)


 この場合の西部各郡とは、札幌をはじめ小樽、積丹美国古平忍路厚田、岩内、古宇、寿都、浜益、高島、石狩の一三郡を指す。結局この文言は、「隠売女」すなわち私娼を廃止する代わりに、「遊女屋」や「飯盛」の名義を使用し、永住人の「抱女」とすることで取締(監視)も行届き、その地方の繁盛のもとともなるので、旅店(本陣、通行屋も含む)に「飯盛女」を置くことを許可したい。ただし、「遊女屋」は小樽のみに許可するもので、他は「飯盛」と唱えるようにしたいという内容であった。この件についての上局の回答は、「諸場所人情等熟察ノ上適宜ノ処分可致事」(同前)とあり、別に反対もしていない。むしろ、既成事実として西部各郡に存在していた「隠売女」がこれを境に公認され、小樽のみ「遊女屋」、その他の郡においては旅店で「飯盛女」を抱え置くことを奨励されたともとることができる。
 『札幌昔日譚』によれば、二年当時札幌の創成川畔に、菅原治左衛門秋田屋と清水利右衛門の〓旅館の二軒がすでに「飯盛女」を抱え置いて営業していたという。これが四年の本庁舎や諸官衙の建築ラッシュの時点になると、いわゆる「売女屋」は六軒に増加している(明治四年札幌区画図 北大図)。札幌は、同年春から開始された市街の区画割やそれにともなう建築関係の大工・土工夫等人夫が数百人も雇われており、商人層も続々と到着し、札幌の人口が爆発的にふくれあがっていた。
 この土地区画割の過程で、開拓使はもっとも南端に位置し、官庁街からもやや離れている地点の二丁四方(現南四~六条西三~四丁目)の四ブロック分を遊廓予定地として設定し、これを「旅籠屋」渡世のものに割渡した。同年七月二十三日付で直接割渡しの担当である開墾係から判官、権監事宛に次の伺が提出された。
今般割渡シニ相成候郭地之儀以来薄野(新地を抹消)と相唱江且売女屋之儀ハ当分之処都て旅籠屋と為相唱被為申度此段奉伺候
(評議留 道図)


図-1 明治8年薄野遊廓図 『明治八年札幌戸籍番号帳』(札幌市文化課蔵)等より作成。

 これには、割渡しとなった遊廓地を薄野(すすきの)と称呼すること、および遊廓地内へ移転予定の「売女屋」を当分旅籠屋と称呼することの二点が含まれていた。この件について、即日決裁が下りたものとみえて、翌日には開墾御役所より、「今般旅籠屋渡世ノ者へ割渡候地所之儀ハ薄野ト相称可申事」(民事局布達留)が一般へ達せられた。この時点で六軒の「売女屋」も遊廓地内に地所割渡を受け、開拓使から家作料貸与を受けて家作建築にとりかかったものであろう。九月段階には、家作も完成したのか、すでに薄野旅籠屋惣代なる役職も生まれ、中川巳之助高瀬和三郎の二人が薄野廓内の取締のために行司職を設けることなど三項目を嘆願している(市中諸願綴込)。その後も、遊廓地内の旅籠屋は増加したものとみえて、同年十一月十三日付の行司職任命の願書によれば、すでに一三軒以上の旅籠屋が存在し、「売女屋」を営んでいたようである(同前)。土地の区画割からわずか四カ月後という超スピード振りは、官の保護と需要があってはじめて成り立つものである。
 ちなみに当時の札幌市中の人口構成では、五年一月段階に開墾係が把握した限りでも二二六戸、一〇二二人、うち男六五六人、女三六六人と男女の人口比率がおよそ三対二の割合であった。また永住人と寄留人の比率においても三対二を示していた。このことは、当時の札幌が誕生したばかりで「男多女少」傾向にあり、多くの寄留人という流動人口を抱えたまさに建設途上の街であったことを示している。それゆえに、遊廓地の決定は官主導のもとに土地区画割と同時に行われ、旅籠屋の名目で存在していた「売女屋」をその遊廓地内に土地割渡と家作料貸与を通して集住させる方策が速かに進行した。