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区長

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 区を統轄し行政事務を執行する責任者は区長である。その選出手順は区会が候補者三人を選挙し内務大臣に推薦すると、その中から内務大臣が天皇に上奏し裁可を得て就任することになるが、区会における第一候補の選出が重要な役割を果たす。区長は区公民に限らず、任期は六年で有給吏員とされ、区制第二一条に担任する九項の事務概目が明示されている。そのほか区会の議長であり、且つ区に関する国の行政事務を掌るなど、大きな権限を持つことになった。明治三十二年から大正十一年に至る二二年一〇カ月の区制期に五人の区長が在任したが、いずれも難産の誕生で、次の区(市)長就任までの空白期間が長い。その間は区助役が区長代理をつとめた。
表-3 札幌区長・同代理一覧
職名氏名就任年月日退任年月日備考
事務取扱加藤寛六郎明32年10月1日明33年1月12日札幌支庁
区長(初代)対馬嘉三郎 33.  1.  13  35.  5.   6 
代理石丸弘陽 35.  5.   7  35.  6.  23 助役
区長(2代)加藤寛六郎 35.  6.  24  39.  6.  14 
代理河田猪三郎 39.  6.  15  39.11.  19 助役
区長(3代)青木定謙 39.11.  20 大  1.11.  19 
代理杉本喜久治郎大  1.11.  20    2.  8.  10 助役
区長(4代)阿部宇之八   2.  8.  11    8.  8.  10 
代理杉本喜久治郎   8.  8.  11    8. 12. 19 助役
区長(5代)佐藤友熊   8.12.  20   10.12. 28 
代理前田宇治郎  10.12. 29   11. 7.  31 助役
*…大正11年8月1日以降市制,継続

 札幌区会の成立にあたり、三十二年十二月九日、内務大臣から内閣総理大臣に初代区長候補者を推薦するよう命じる手続きがとられ、函館・小樽区とともに、十二月十四日その旨が内閣総理大臣から天皇に上奏された(口絵参照)。第一回札幌区会における区長候補者の選挙は、区会議員選挙の混乱を反映し、実業協会派と憲政党派がそれぞれ候補者を擁立したが、十二月十五日の一回目投票で、実業協会派が推す対馬嘉三郎が過半数の票を得て第一候補者に選ばれた。二回目三回目の投票で谷七太郎森源三が選出され、この三人を内務大臣に推薦した結果、第一候補者の対馬が、三十三年一月十三日天皇裁可を得て初代区長に決定した。これにともない、対馬は区会議員を辞任し、十九日区長事務取扱者から引継を受けて執務することになったが、その就任披露宴は三月十一日偕楽園で催された。

写真-3 北海道札幌函館小樽区長候補者推薦ノ件

 国立公文書館所蔵の「公文雑纂」明治32年巻16に収められている初代札幌区長選定に関わる文書。札幌区会の成立は、明治32年12月13日で、その区会において区長候補者3名を選挙し、うち1名が天皇裁可によって初代区長に就任する。その候補者選挙の実施を内閣総理大臣が上奏し、12月14日に裁可を得た文書。

 対馬嘉三郎(一八三六―一九一四)は津軽藩弘前の生まれで、開拓使職員として明治五年札幌に来たあと「十年退官シテ専ラ実業ノ発達、地方ノ開進ニ力ヲ致シ、翌年堀基ト商リテ札幌ニ大有社ヲ設ケ産物輸出入ノ途ヲ開キ、爾来実業諸会社ノ創立一トシテ與カラサルナク、就中北海道協会ヲ創設シテ最モ拓殖ノ進捗ニ努メ」(拓殖功績旌彰記)たが、三十五年五月六日区長を辞任した。のち衆議院議員選挙に立候補し落選するが、次回選挙で当選、札幌商業会議所会頭をつとめるなど札幌の元老と呼ばれた。東京転居後は不遇な晩年だったという。
 二代目区長は区公民からの選出を主張する人たち(非移入派)と道庁支庁長からの移入派が対立して調整がつかず、区会議員の意向投票で移入派が過半数を制した。そこで上川支庁長で、さきに札幌支庁長として区長がきまるまで事務取扱をつとめた加藤寛六郎に区長就任の可否を打診してから、三十五年五月二十八日区会で候補者選挙を行った。結果は加藤を第一、斎藤親広(室蘭支庁長)を第二、石丸弘陽(区助役)を第三候補者に選んだが、斎藤の辞退で大井上輝前(区会議員)がこれにかわった。加藤は六月二十四日裁可を得て二代目区長となる。
 加藤寛六郎(一八四九―一九三五)は会津藩の出身、戊辰の役で敗戦し一時幽囚の身となったが、のち佐賀の乱、西南戦争に従軍した。明治十四年福井県に転じ、以来高知県、福島県で学務課長、師範学校長、県参事官等を歴任し、三十一年北海道庁支庁長に任ぜられ札幌支庁長として札幌に来る。区長としての施政は守成に流れ区民の耳目を新たにする施策を見なかったとの評もあるが、区制の基礎を固めた業績は評価されている。札幌を去ったのち、郷里で福島県農工銀行頭取をつとめ、東京に転じて歿した。
 加藤区長も任期中の三十九年六月十四日に退任し、次の区長候補者選びは難行した。区会は大井上、斎藤二派に分かれ話し合いがつかず、またも区外移入のやむなきに至り、ついに内務省地方局長の推挙を得て区会議員協議会を開き、十月二十九日やっと候補者選挙にこぎつけた。一回目投票で地方局長推挙の青木定謙が満票を獲得して第一候補者となり、ほかに谷七太郎土屋轍の二人が選出され、青木に十一月二十日裁可があって第三代区長に就任した。
 青木定謙(一八五六―一九三〇)は秋田藩の出身で、山形、秋田、高知、島根、和歌山、新潟、広島県庁に勤め、おもに警務畑を歴任し休職中であった。区長に就任し専ら進取的方針をもって日露戦後の札幌区経営に取組み、学校新設、土地交換、庁舎建築、公園設営など都市的施設の充実に力を注いだが、上に厚く下に薄いとの批判を受けた。任期六年をつとめ、再選の働きかけがある一方で、反対期成会もできて再任には至らず、大正元年十一月十九日退任した。任期を満了するのは青木をもって初めとする。
 四代目区長は区公民から擁立したいとの願いが強かったが、人物を一人にしぼりきることは容易でなかった。一度選挙した候補者を白紙に戻し調整に時間がかかり、大正二年七月十四日やっと再選挙にこぎつけた。結果は第一候補に阿部宇之八、第二永田巌、第三関場不二彦を選び、阿部に八月十一日裁可があって第四代区長となり、十三日初登庁して区役所職員の報復人事をしない旨を表明し、選挙後の円滑な行政執行に配慮した。
 阿部宇之八(一八六一―一九二四)は阿波国、現鳴門市の生まれで、実父は興産社の創立者滝本五郎、養父は衆議院議員となる阿部興人である。大阪新報に入社して新聞記者の第一歩をふみ出すが、道庁ができると札幌に来てしばらく勤務し、まもなく北海新聞を譲り受け、北海道毎日新聞と改題して経営と編集に力を注いだ。この新聞が核になり北海タイムスが生まれるが、宇之八は常にその中軸にあった。北海道拓殖の拡大を主張し、民権の伸張に意を注ぎ、衆議選挙に立候補したこともあるが当選しなかった。晩年は北海道青年協会をつくり、次代を担う若者の育成に努め、僻地までも講演旅行を続けたが、無理が重なり札幌で歿した。札幌に特別な愛着を持ち続けた重鎮であった。
 阿部区長は八年八月十日任期を満了して退任した。次期区長候補者をめぐり、阿部再選論の高まる中、札幌俱楽部が九月二十一日区民大会を開き「区内より適当の人物を詮衡して自治の本義を保維」(北タイ 大8・9・23)する宣言を出すが、区会の詮衡委員会は区外移入に傾き、佐藤友熊を推すことになり、十一月二十二日の区会において選挙が行われた。その結果、佐藤が第一候補者に、第二村田不二三、第三高桑市蔵と決まり、十二月二十日裁可があって佐藤は第五代区長に就任するが、札幌着任は翌九年一月十日のことだった。
 佐藤友熊(一八六五―歿年不詳)は薩摩藩の出身で各地裁判所の検事を経て台湾総督府に勤め、前職は関東都督府警視総長だったが、官制改正のため廃官となり無役であった。札幌に来て「在任中一眼殆ど失明の不幸を見、又水電問題紛糾したるが、君が一流の秘密主義は有らぬ怨みをさへ買へり(中略)君に行政の手腕を期待するは或は無理な注文なるべし」(北タイ 大10・12・9)との批判を受けて、大正十年十二月二十八日退任してしまった。その後任区長の折衝はなされつつも、市制施行を目前にして区会での候補者選挙は見送られた。
 区制期五人の区長で、区内からの選出は初代対馬と四代阿部の二人、二代加藤、三代青木、五代佐藤の三人は移入人事である。任期を全うしたのは青木と阿部の二人で、あとの三人は途中で退任したから、平均すると一人の在任期間は四年一カ月あまりであった。