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総力戦の底辺

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 前期にこうした明るい話題もあったのだが、その後はむしろ暗いできごとの続く時期となった。その象徴的できごとは、せっかく招致に成功したオリンピックの中止であろう。不況の中で続けられた街づくりも、昭和十二年(一九三七)日中戦争以後転換を余儀なくされた。このあと太平洋戦争終結までを本巻が扱う時代の後期とする。
 政府が戦争の長期化を見通し、国威宣揚、生産増強、資源節約を呼びかける国民精神総動員運動を始めると、三代目市長に就任した三沢寛一は、堅忍持久、確信沈着、雄渾剛健の精神をもって忠誠報国するよう市民に訴え、「生活を改善し、無益の消費を抑制し、奢侈贅沢を慎み、職分に恪循し、労資協調し、勤労を励み、国産を愛用し、資源を涵養し、生産貯蓄を盛にする」(札幌市告諭第二号 昭12・10・13)方針をかかげ、前期に進めてきた都市基盤整備事業を見直し、国家総動員法の下で札幌市の新体制を推進しようと、公区制を実施したのである。
 この制度は市民一人一人を市役所が直接管理し、国政の方針を市役所が仲介して市民一人一人に伝達し、その方針にそった市政執行を意図したから、個人主義、自由主義、民主主義の否認を市民に求めた。それにかえて国体観念を唯一の正統な思想とし、よき市民はよき臣民であり、臣道を実践し大政翼賛につくことをねらい国家神道の浸透をはかった。三吉神社札幌の郷社とし、市の行事は三吉神社神主が祭司をつとめ、ことあるごとに神社参拝を呼びかけた。したがって仏教でもキリスト教でも、その信者は国家神道を認めた上でなければ信仰を許されず、認めようとしない者は思想統制の取締りを免れなかった。
 前期から都市計画事業にとりかかり、道路、公園、区画整理等を進めようとしたが、後期になると予算がともなわず計画はなかなか進展しなかった。舗装道路はごく一部分で、大半は砂利さえ敷かれないぬかるみ道で、馬車が主な運搬手段であった当時だから、春からの馬糞風札幌名物となり、秋の轍(わだち)に人も馬も泣かされた。トラックを備える運送業者もみられるようになったが、除雪道路は一部にすぎず冬期間の札幌での営業は不可能であった。したがってトラックは冬の間道南や日高方面へ出稼ぎに出し、馬橇運搬によったから、馬とトラックの併用はさけられなかった。
 都市化の進行に比例するかのように、豊平川沿岸に細民街が形づくられていった。慢性的不況の下で就職先が少なく、市役所では失業対策事業を進め、細民調査を行い、保導委員制度を充実させるなど対応にあたったが、一地方都市の力だけで貧困問題は解決しようになかった。昭和十七年版『札幌市勢一覧』によれば、市内に窮民、行旅病患者を収容する市立診療所済生会診療所をはじめ、札幌無料宿泊所愛隣館宿泊所など多くの社会施設があり、「経済保護、失業保護、社会教化、医療保護、教育保護等に万全を期している」としたが、細民街はなくならなかった。

写真-3 紙芝居を見る子供たち(昭和11年頃)

 総力戦体制が組まれ、物も人も思想も統制された中で、課題解決の糸口をどこに見出したか。その一つが工業立地構想である。札幌市の産業は何かと問われれば、第一に工業と答えなければならない。昭和五年国勢調査による札幌市の職業別人口は、商業が二九・七パーセント、工業は二九・〇パーセントで二位である。これを生産額でみると(昭15)、全市で七八八五万円であるが、その内鉱工業は実に七三八〇万円を占めているからである。この実績をふまえて、一大工業地帯を造成することが札幌の新しい発展方向であると考えるようになった。
 折しも政府は国土開発計画の立案を進めて、全国を九ブロックに分け各ブロックごとの綜合計画を作成することになり、北海道はその一環として、昭和十五年一月から検討に入った。札幌市は工業化構想をこの綜合計画に盛り込み実現をはかろうとしたのである。
 戸塚道庁長官は拓殖計画が農業中心であるのを新計画で工業重点に変え、石狩、苫小牧に工業港を築設し、製鉄、人造石油、硫安、ソーダ工業を立地させるプランを描いたから、札幌がその中に位置づくのは容易であった。この石狩―苫小牧低地帯の工業化構想により、札幌は新たな発展の手がかりを得ようとしたが、戦争の激化により本時代中に着手されることはなく、一部が戦後総合開発計画へ引きつがれた。この計画の挫折にともない拓殖計画がまた見直され、最終段階では食糧増産のための土地改良と石炭、鉄、マンガン、石灰等軍需資源の増産に重点がしぼられ(北海道の拓殖開墾及び耕地改良計画に就て)、敗戦を迎えたのであった。
 このように転換をとげた札幌市をどのように表現したらよいのだろうか。札幌生まれの作家島木健作が昭和十五年に書いた「札幌」の一節を引用しておきたい。
 札幌は特色のある町であったが、近年その特色も薄らぐか失はれるかして来たといふことを聞かされる。昭和十三年に、私は十二年ぶりでか生れた町の札幌へ帰ったが、そのやうな感じがしないでもなかった。そのやうな気がしたといふのは何も格別のことではなく、少年時代の思ひ出のあった所などが変ってゐて、その変り方が此頃のどこの地方都市にも見るのとおんなじ模様であって、面白くなかったといふだけのことである。狸小路などといふ盛り場も、昔はもっと道幅が狭く、何かゴタゴタした侘しいやうな感じのなかに、雪国の半植民地の町らしいものがあったと思うのだが、今は道幅も広くなり、鈴蘭燈が並んで明るくなり、森永か明治の喫茶店がその通りを代表してゐるといふやうなことになって、半植民地的侘しさどころか、人口二十万程度の地方都市にふさはしい繁華街といふことになった。(中略)町そのものの外貌もいろいろと変り、どこにもある地方都市のやうな顔になって来た。今では、流行は東北地方を駆け抜けてまっすぐ札幌へ行くとか、なかなかいいホテルがあるとか、講演会はいつでも盛だとか、若い女には美人が多いとかいふことで聞えてゐるやうである。そしてかういふことも亦どこの地方都市にもあることである。
 相ひきいて、ともども繁栄しつつ通俗になって行きつつあるやうである。
(国書刊行会版 島木健作全集 一二)

 島木の言葉を借りれば、札幌はかつての特色を失って、どこにでもある日本の中の一地方都市になったのである。そこで今一度、区制期に本州と同じ市制札幌に求めた人々の思いに立ち帰り、これでよかったのかどうか、ふり返ってみることが大切であろう。