正月元旦、2日、
3日、御目見え仰せつけられ、大庄屋の皆と例のとおり在方の者も出席し、午後2時半に終わった。大庄屋の藤森・栗林・丸山・等々力・清水・上原・中沢・中田・小藤井・小藤森が出席した。
4日、寺院の御目見えを仰せ付けられ、鍛之助が差し出し、これまた首尾よく済ますことができた。それから、御年寄方・御奉行・御代官・御勘定所、そのほか年始の御礼に廻っり、その日のうちに済ませた。
18日、御役所の出初なので、我ら倅と共に出席。同じ役の出席者は、金井・藤井・等々力・丸山・中田・小藤森・中沢。
(改頁)
21日、例年のとおり、御城内の稲荷様に拝礼、我らは鍛之助が出た。ほかに同役の藤森・等々力・中沢・中田・小栗林。
22日、雨。
23日、桐原分に住む平八後家の家に捨てられていた脇差を差し出したところ、6か月間の建札を仰せ付けられたことを申し遣わした。
24日、明日25日朝6時頃出発して、尼子右膳が上田に行くことになったので、例のとおりその旨を差し出された。筑摩神社の神主が26日に、郷御目附へ罷り出るとのお達しがあった。
(改頁)
26日、どうしても協議してという沙汰があった。昨年に御沙汰があった唐金の評議をしたところ、その有無の申し出がないか申し出たが、御役所が書き留めなかったのかわからないので、一応評議することを申し出た。もっとも、山家組が申し出たと思われるので、いずれ申し合わせると、郷目付から聞かされ、承知した次第である。
27日、このたび詮義があり、来月五日に宮本神明宮・筑摩八幡宮、同七日に保高明神、五穀就ならびに火難災難除の御祈を仰せ付けられたので、郡御奉行はじめ出役した。村々の人たちも最寄の神社へそれぞれに勝手に参詣するように、各組の村々と寺社にも漏れのないように連絡すること。おって書面で返事をすること。
30日、御家中の御才覚金を、二月四日に御下げという沙汰がでたので、割り当ての上、組々の惣代が差し出すように、当番組惣代に申し出で、例のとおりに差し出すように。金井・栗林。これを直ちに中田氏へ連絡した。
(改頁)
庄内村弥六・力左衛門・いそ・五右衛門忰の幸之助、これら牢舎の者が印を持参するように、村役人から明日1日に呼出しがあった。役人も印を持参するように。金井源左衛門が直ちに書付をもって次の者に申し遣わした。
岩井三郎右衛門代り河野友六、手代定補欠河野友六代り吉田門助。
右のとおり仰付られたので、組内の村々と寺社へも漏れなく申し聞かせる事。正月1日、表勘定所より。
これを1日、金井へ継ぐ。
(改頁)
2月1日、風、暖い。
書付をもって申し遣す
高橋権蔵代り藤沼九郎之丞、草間藤内、直段方広瀬小左衛門、教諭百瀬及左衛門、取締方 石井右衛門太、高橋元次郎、栗原作兵衛代り沢柳金平。
郡同心
右のとおり仰せ付られたので、この旨を組内の村々と寺社江へも漏れなく申し聞かせる事。郡役所より。正月29日。
昨年に御沙汰のあった「からかね」之の「古かね」はどうなったのか、その有無を組から申し出るように郷目附か聞かされたので、返書を申し上げる。栗林七郎兵衛より。29日
右について中田から29日の夜に申し参ったので、2日朝に申し継いだ。
(改頁)
田沢山一件について、明後日3日に宮淵村の役人と惣代が出るように御目付より御達があった。1日、金井佐源太。
これを、東へ申し遣した。
2日、天気、寒風。
3日、快晴。
明日4日朝六時頃、御奉行が松本城下の御徒士町(おかちまち)通り宮本へお出でなさるので、お通りの筋ではいつものように心得るようにとの仰せだったので、承知した。
丸山杢右衛門、2月3日。
午後3時頃来たので、すぐに藤森へ継ぐ。、青嶋村(松本市島内青島)へは書付を遣した。
4日、大雪。
5日、天気。
(改頁)
筑摩神社へ御祈祷について御出役、御奉行渡辺半太左衛門様、御手代松田五六太夫殿。
同役の我等も。上条覚左衛門は忌中のため中沢権右衛門、中沢権右衛門へ御預けについて出る、中田源次郎、折井鍛之助。
我ら鍛之助が朝8時頃に出る、源次郎が先に出る。
御饗応料、1組に3分ずつ、松屋忠衛に渡す。
組々役人は、鋳物を百疋ずつ神前へ備える。
我ら四人で金百疋(銭25文が1疋)を備える。我ら取り替え置く。
献立。昼飯。平皿(鰤おろし身・長いも・しめじ)、平皿(生鱈煮付・ひはりミ・なら漬け)
(改頁)
御祈祷初めが済んで中座、神主は勤め中にお昼、そのあとお酒がでる。、
硯ぶた(広蓋)(小鳥・焼玉子・阿わひふくら煮・平目さし身・なし)、丼(鮒おろし身・うど・三盞酌・きくらげ)、酒、うんとん(雲屯?)。
首尾よく午後5時頃引き取る。
筑摩(つかま)村の庄次郎が忌中なので、中林兵三郎と埋橋伝右衛門へ万事世話方を申しつける。
6日、天気。
宮淵村の才八の件について、明後日8日に御呼び出しがあったので、東へ書き付けを遣した、
書付をもって申し付ける
已納、白大豆2斗6升4合、戌、黒大豆3俵2斗5升、亥納、白大豆2俵、
(改頁)
黒大豆7百11俵2斗8升3合。
これは御蔵大豆お払いなので、組内の村々で希望の者がいれば、来る11日早朝に早て入札持参するようにとのこと。代金については6月29日限り、それとも当人に売る者は入札するようにと触れがあった。入札は9月中頃。
7日、天気。
8日、雨。
三州鳳来寺真言学頭醫王院。
信濃・美濃・近江。
御高懈堂と目坊向が大破したので、修復助成のため3か国と御府内武家方、寺社在町3ヶ年のあいだ勧化、寺社奉行連印の勧化
(改頁)
状を持参、役僧役人とも、来る未3月より来る戌2月まで、御料・私領・寺社領・在町巡行するので、信者を迎える者は、物の多少にかかわらず寄進する旨、御料は御代官より、私領は領主・地頭より申し渡された。午12月。
朝鮮種人参の作立てについては、当分のあいだ野州(下野国、しもつけのくに、今の栃木県)一国はのこらず御用に申し付けられた旨を、辰年(弘化元年、1844)に発せられ、野州産の人参を他国の品々と混ぜて紛らわしいので、御府内(ごふない、江戸城を中心にしてその四方の一定区域以内)そのほかあちこちの薬種屋ともに相互に吟味をし、他国産の品を買い請ける際には、その産出の場所を確認し、吹上役所で御払の品といっしょにならないようにすること、また、人参種については、野州においてみだりに売買し隠れて作付し、または人参根を相対で売る者があるやに聞くが、不埒なことである。右の国中御用作になれば、今後は野州一国中のもの、人参種いっさい売らないようにすること、もしこれからも隠作した人参根を売りさばくものはもちろん、不正之の品を取り扱った者がいれば、詳しく調べたうえ、かならず申し付けるように心得ること、以上のことについて御府内ならびに関八州・
(改頁)
陸奥・出羽・信濃・越後国、御料については御代官・そこの奉行、私領は地頭、寺社領とも洩れの内容に知らせること、
書付をもって申し遣す
一、別紙之のとおり、公儀より仰せ出だされたので、この旨をそれぞれの組のなかの村々と寺社江にも洩れのないように申し聞かせること、おって、この書付を返すこと、
一、組の融通金の取り計らいについては、急いで指し出してほしい、来年からは春は正月中ニに差し出すようにと、御代官所で申し聞かされた、これについては、中田が継ぐ
9日 大雨
右は、中沢へ継ぐ
十日 曇る
十一日
十二日
(改頁)
十三日
十四日
十五日
十六日 夜より雨
一、鍛冶屋の前の山家道(やまべみち)のうち、追分(おいわけ)より御塚までの道の両端へ、まわりに桜の木を植え付けると、人びとに差支えがあるかどうか調べて、急いで申し出るようにへ沙汰があったので、明後十八日までに取り調べて申し出るように、松田兵太夫より、
十七日 終日雨
十八日 同
庄内村の中条道太郎、右之の者が印形を持参し、明十九日に御呼び出し、ただちに庄左衛門が知らせた、
一、御塚道の桜の木を植え付けても差しさわりがないと、伝右衛門が申し出たので、御部屋へ申し上げるように知らせた、
(改頁)
十九日 快晴
宮淵村役人、右は明後二十一日に御呼び出したところ、御役所がやっていないので、二十三日に御呼び出しと知らせた、、
庄内村の中条道太郎、右の者を今日御呼び出したところ、遅刻したので、明日二十日に御呼び出しと源十へ伝えた、
盗難届、去来一〆、逗留願一〆、諸証文、作喰願、これらを頼み遣した、
一、熊倉橋の諸木が揃ったので、見分のため、来る二十二日に出役と、藤森より申し参る、上条へ継ぐ、
(改頁)
二十日 雨
二十一日 同
二十二日 天気
二十三日 曇
書付をもって申し遣す
小嶋村の弥兵衛・利右衛門・五左衛門・庄右衛門後家くに、右の者たちに御用があ
るので、明日二十四日朝一〇時頃、村役人とともに召し連れてくること、郡所より、
ただちに申し遣す
一、宮淵村の丁場・渡場原(どばはら)のあいだで、鉄炮の稽古をしても差し支えないかどうか、
(改頁)
申し出でがあり、先年の様子を取り調べて申し出るように沙汰が、あった、
二十四日 雨、寒い
一、御目論見帳村々一帳、両嶋・渚・笹部組合一帳、下された、
庄内村の中条道太郎が印形を持参し、明日二十五日に御召し出た、
二十四日 雨天
二十五日 同じ
一、馬の商いについて、江戸の御馬役より国もとの御馬役にあてて、別紙のとおり申し参ったので、売買等について、委細取り調べて急いで申し出るように、郷目附から仰せ聞かされた、正月二十三日、藤井澄之助・藤森善太夫
(改頁)
別紙
手紙にて啓上つかまつる、御国許で馬市を建てているか、また、当時馬出所について、御面倒ながら御取り調べてほしいと、その筋よりお尋ねがあったので、御回答申し上げる、御返書を下されよう準備する、正二十四日
御国許で馬市を建てているなら、その馬市の場所、また、馬市を建てていなくとも売買しているのかいなか、これらについても御回答申し上げる、
一、唐金の古金の有無について、旧冬いまだ申し出がないが、早々に申し出でるようにとの知らせがあったので、、御承知願いたい、藤井・藤森より
右の二通とも、二十六日に上条へ継ぐ、
(改頁)
二十六日 快晴
二十七日 曇、寒い
二十八日 快晴、暖い
書付をもって申し遣す
御印 一六万百六十五石 寄夫掛高 二斗八升八合四勺 この人足六万人
上野組 六千百八十二石八斗五升九合 この人足六千百六十五人
嶋立組 七千二百九十四石一斗三升七合五勺 この人足七千二百七十三人
高出組 四千六百十六石五升七合二勺 この人足四千六百三人
岡田組 二千七百二十六石六斗三升九合六勺 この人足二千七百十九人
(改頁)
庄内組 二千六百十六石七斗三升三合六勺 この人足二千六百九人
長尾組 八千百三十三石八斗八升四合七勺 この人足八千百十一人
成相組 六千二百八十一石六斗五升五合八勺 この人足六千二百六十四人
保高組 六千七百四十五石一斗五升二合 この人足六千七百二十六人
山家組 二千五百五石七斗四升五合 この人足二千四百九十九人
松川組 五千三百六十一石八斗八升三合 この人足五千三十四人
(改頁)
右のとおり川除の寄夫を申し付ける、おって、この書付は返すこと、郡所 印
右の金額を来月十五日に上納
二月二十八日、中田より上条へ、即刻に継ぐ、
(改頁)
殿様が埋橋(うずはし)の御塚へ今朝一〇時頃に御参詣すると仰せ出だされ、右について高橋相蔵より申し参ったので、両村へ知らせた、
三月一日 天気、暖
二日 同じ
三日 同じ
(改頁)
一、宗門御改の日限について取り決めて申し出るように申し聞かされたので、昨年のようにすれば、四月三日のうちに改め始ればよいので、右の場で取り決めて申し上げたので、差し支えのないように取り計りたい、差し支えのある組があれば、出勤して話すようにと御通達申し上げる、二月四日 藤森善兵衛・藤井澄之助・中沢権右衛門・金井源左衛門
右について中田へ午後四時頃に継ぐ、
書付をもって申し遣す
庄内村の牧弥、御用があるので、明日五日朝一〇時頃に村役人とともに、召し連れてくるように、表勘定所より
一、埋橋村の役人、宮淵村の役人、明日五日朝一〇時頃に、遅れないように召し連れてくるようにと、中沢より通達があったので、ただちに申し遣す、
(改頁)
一、妙福寺等からの出願を御聞き届け、東へ宮淵役人を呼び出して書状入遣す
下横田町の恵光院の禅堂そのほか諸座が破損したので、御領分勧化御免組々へ通達するようにと仰せ出されたので、承知ねがいたい、三月一日 金井佐源太・上条覚左衛門より
右について中田より四日に参る、
五日 晴、暖い
六日 同じ
七日 曇る、暖い
明日八日に城山見分のため御役所より出役があり、御作事所より今朝一〇時に出役があるので、どちらかの御作事所で休
(改頁)
息の場所を心掛けておくようにとの沙
汰があったので、村役人へ知らせた、
一、若宮八幡の神主の所持地が城山にあり、その内にも道筋があるので見分の際には、神主が罷り出て、なにか故障があるか承知しておくようにとの知らせがあった、三月七日 高橋相蔵より
近日御勘定所より、御手代御同心を一人宛出役のある旨を承り、御休息所を心掛けるようにとの達しがあった、もっとも御沙汰はとくにないが心しておくようにとの知らせがあった、
右について直ちに申し遣す
八日 夜、雨、夜は風がとくに強い
一、明九日明け六時、御出宅にて御奉行方、中ノ条へ御出るので、御通り筋の村々は例のとおり心得ておくようにと知らせがあった、三月八日 金井源左衛門より
(改頁)
右の御奉行の御出立は暁正四時に下ると直ちに知らせる、
蟻ケ崎村役人は、明日九日に御呼出しがあり、時刻は正刻に出るようにとの御達有ったので、直ちに申し遣わした、
当山方山伏・羽黒行人・蛭子社人・梓神子、この者たちは来る十八日に、御役所で宗門御改をするので、いつものように間違いなく朝八時に出てくるようにとの御申し付けがあった、帳面は、来る十一日までに差し出すようにとの申し付けもあった、三月十八日 沢柳藤五左衛門・組田蒸蔵より
右を中へ継ぐ
(改頁)
折井伴右衛門・藤森善太夫・丸山杢右衛門・金井源左衛門・藤井佐左衛門・上条覚左衛門
来る十三日に御通用所より詮議の御用があるとの旨を、上条より達す
九日 快晴
御差合名字、左のとおり
(ヨシ) 祥(サチ) 光(ミツ) 則(サダ) 庸(ツネ) 尤(ユウ)
伊保(イホ) 濱(ハマ) 貞(ミサ) 鋠(シン) 起(ヲキ) 谷(タニ) 文(フミ) 重(シケ)
右のとおりなので、村々に洩れのないように申し付けること、三月十八日 沢柳藤五左衛門・組田蒸三より
右について、九日朝中田より参り、、即刻に藤森へ継ぐ
十日 晴、暖い
一、来ル十一日、蟻ケ崎村地内の木賊山の東方より、大筒(大砲)があるとのこと、もよりの村々へ申し達すようにと仰せ聞かされた、
一、昨日蟻ケ崎村役人が御召し出され、大筒について、委細を御尋ねがあり、役人は承知しているので、、右の村役人へも申し達すように仰せ聞かされた、金井より
一、小嶋村の四方兵が入牢を仰せ付けられた際に、牢扶持の話し合いがなかったので、早々に話し合うようにとの御達しがあった、金井より
一、宮淵村の役人に御用があるので、明日、郷御目附に罷り出るようにとの御達があった、
(改頁)
金井より
右について夫々に直ち申し遣す、午後五時
十一日 快晴
十二日 同
十三日 曇る
当日、御通用所・産物所より我々の出役があった、
通用所 喜多村小市殿・飯田多助殿・青木勘太夫殿・堀箕之助殿・左助殿・ほかに二人
同役 藤森・丸山・金井・藤井・上条・中沢、中沢は出懸なので参る
(改頁)
一、去る冬に蟻ケ崎村へ御救い下し置かれた人別割合調帳を、早々に差し出すようにと御部屋より申し聞かされた、
一、村々の長百姓の名前の帳面を、二十日頃までに、間違いなく差し出すようにと、これまた御部屋より申し聞いた、金井より
十四日
筑摩村の惣三郎の娘・伊深村の作右衛門の忰・承兵衛妻を差し遣したいので、岡田口の御証文御下会所に預り置いた品を、御受け取り願いたい、等々力より
十五日 快晴、暖い
庄内村の道次郎妻すゑ、差添役人五兵衛
(改頁)
右の者が、御預役所へ願いがあって、御添簡願ったところ、御預役所へ御掛け合いが済んだので、勝手次第に願い出るように、さりながら、最初に願い出るときには、役人が罷り出て御呼び出して伺うようにと、郷御目附へ仰せ聞かされた、金井より
十六日 曇、折々雨少
書付をもって申し遣す
江戸表より申し来られたことは、盛姫君様が、当十日に御逝去あそばされた、これにより左のとおりに心得ること、
鳴物、祭礼、家業之殺生、座頭・瞽女之音曲、これらのことは明十六日まで慎むこと、
(改頁)
諸祝儀、諸殺生、音曲、これらは来る二十九日まで慎むこと、火之用心には念を入れること、普請は止めなくてよい、
右のとおりのことを、それぞれの組の村々と寺社へ洩れの内容に申し聞かせること、未三月十五日 郡所より
右について、十六日朝七時に廻状を出す、
十六日
十七日 天気
十八日
(改頁)
十九日
二十日
二十一日
明後日二十三日、御子様方、橋場を廻るので、御出の道筋、伊勢町通りに御人数六
十九人
下波田村の平左衛門方に御休、右のとおり御道筋は先例のとおりに取り計らうようにとの御達である、藤森
二十二日 天気
このたび、四千両の御才覚金が仰せ出されたので、当日に会所へ集まるように、会所にて御酒を
(改頁)
くださるので、代役までも罷り出るようにとの、藤森より通達があり、鍛之助とともに出た、同役出勤、藤森善太夫・金井源左衛門・藤井佐左衛門・等々力伝右衛門・中沢権右衛門・山崎三十郎・中田源二郎・上条長之助・丸山円十郎
右の者が出た、大町両人と松川は不参加
会所で御酒をくだされ、御挨拶のため、御手代の堀箕助殿・青木勘太夫殿が午後五時頃の参られ、それより吸物が出る
吸物 鯉・木くらけ・三味・葉さん志よう
(改頁)
硯蓋 巻玉子・阿か貝・なし・むし貝・はす
大平 塩ます・竹輪ふ・竹の子
鉢 鯉洗・ます いり物・岩たけ・千玉子 溜
丼 もミいり・志しか・三盃酌
膳部
めし
汁 とうふ
平 塩引さけ・まき玉子・志ゐたけ・竹の子・にん志ん
皿 大阿か魚三つづつ
もち菓子 腰高
右のとおりの献立をくだされた、夜一〇時頃に我々倅ともに引き取る、
(改頁)
二十三日 天気
右の一件について割り当ての出勤ということだったが、疲れのために出勤せず、
二十四日
割り当てについて申し遣すように左のとおりに申し参る
貴翰を拝見した、私は割り当てについては、だんだんに申し合わせて定められたい、
(改頁)
御組下、四千両之うち、庄内組は二百九十両
右のとおり御承知くだされたい、また、池田組について仰せ下され存じていると思うが、両家之も精々申し合わせたが、三千両御才覚の際に、市川が加って種々相談したが、昨夜申し上げたように割り当てを定め、大体が帰宅した、委細についてはお会いしたときに申し上げる、御用達の場を除くことになり、連絡することはしないが、今日ないないに御伺したところ、このたびは、別段に沙汰がないので割り当てした、しかるべく仰せ聞かされたので、御承知願いたい、三月二十四日 中田源二郎・中沢権右衛門・等々力伝右衛門・藤森善太夫
(改頁)
一、城山の御制札が壊れたので、村役場へ取り入れたが、御役所へ早々
に差し出すように御達があった、等々カより
一、この間に相談申し上げた中馬について、、来る二十八日にその有無を申し出るように、直段方にて申し聞かされた、候間、前書日限の有無を仰上られるように御取り計らい願いたい、もっとも、組々でつとめるように申し出るように、これまた申し聞かされた、等々カより
一、二十四日夜九時半頃、地震揺れ出し、ますます強く大揺れにて、我らの家居・土蔵ともに大いに壊れ、一〇時頃まで揺れ出し、その後も折々揺れた、夜までいっこうに寝られず、家じゅう残らず夜明けまで身を寄せ合っていた、たびたび何度かわからないほど揺れた、
(改頁)
ようやく夜明になって少し安心したが、まもなく揺れが大きくなり心配した、二十五日は終日揺れた、座敷向・帳付志らし等残らず痛め、、玄関のまいり戸が折れて破れたので、大工をただちに頼み、当座のところを直すことに下が、まことに大変なことであった、
二十五日 天気だったが曇る
この日も終日揺れたが、かくべつな大揺れはなく、いろいろなことをうったえた、夜になって四時頃にまたまた大揺れがあった、そのほかは中ぐらいの揺れだった、
二十六日
当この日も二時から四時まで大揺れということで用心していたところ、三時に大揺れが続いた、四時頃に大揺れとなった、夜に入ってもたびたび揺れた、
(改頁)
二十七日
同じような状況だったので、二十五日より家の者は残らず庭の筑山の「みねぞう」(櫟、いちい)の木のもとに小屋をつくり、この小屋へ夜は引き移った、
二十八日
同じ、夜零時に大揺れ、
二十九日
同じ、
晦日 朝少し雨
同じ
(改頁)
一、城山の御制札がこわれたので、役場に取り人れておいたが、御役所へ早々に差し出すようにと御達があった、等々力より
二十四日 源一郎へ達す、
庄内村の中条円十を、主水殿の若党に抱えたいので、人物について詮議し、村方の差し支えの有無について別紙のとおり御沙汰があったので、御詮議のうえ仰せ上げられたい、
二十五日
一、地震につき、筑摩八幡へ、ただいまから御祈祷仰せ付けられ、この件について御承知願いたい、二十六日 上条
(改頁)
右を直ちに役人方へ申し遣し、神主へも早々に取り掛かるように申し遣わす、
一、金一両一分
右は御祈祷料をくだされたので、請け取られたい、一刻もはやく始められるように仰せ出だされた、上条より
二十六日
右のように御祈祷を始めるように書状を神主方へ認め、即刻に伝右衛門に持たせる、二十六日五時頃に遣し、神主よりの請取書は別にある、
一、善光寺へ参詣した死者や不明者等がいるので、調べて申し出るように仰せ気化されたので、御承知願いたい、同役
(改頁)
江戸表において、公方様御忌、京都から仰進の品もあるので、この二十日より明のため右大将様御忌、解かれるよう、
公方様より仰せ出だされた旨、申し来たので、さきに御触れのあった諸祝義・諸殺
生等、苦しくないと、別紙のとり、公義から御触があったので、そのことを組の村々へ洩れなく申し聞かすこと、三月二十五日 郡所より
書付をもって申し遺す
このたび地震について取調べがあり、宮本神明・筑摩八幡宮・保高明神の神前において、、国家安全・火難・災難除御祈
(改頁)
祷を仰せ付けられたので、このことを組の村々と寺社江へも洩れの内容に申し聞かせること、三月二十六日 郡所より
一、御番所通の御証文三通を御下げ渡すので、封をして差し上げるから請け取ること、金井より、三月二十九日 右を今町へ直ちに遣す
一、地震につき、善光寺参詣人の死者と不明者の書き上げは左のとおり、
庄内村 組頭五兵衛・同人妻津き・七左衛門・十郎次・周蔵・七之丞忰寿三郎・房右衛門後家里う
(改頁)
・同人忰祐次郎・市郎兵衛借屋常右衛門・同人妻セ起、あわせて十人
宮淵村 組頭藤三郎娘
右の者たちは、二十四日に上田御領分の稲荷山宿丸屋八左衛門方で家が潰れ、焼死した、
宮淵村 茂助は、善光寺大門丁の池田屋で潰死、
ほかに、庄内村の長七娘は、山家組に去年の冬に縁付いてきて、亡くなった、
宮淵村で一人
あわせて十四人、
(改頁)
四月朔日 天気 地震折々ある
二日 天気 同じ
宗門帳内の改めをする、
三日 天気、少し曇り、地震、すこしは止む、
四日 天気、少し曇り、地震、昼と夜に五、六回、朝、大揺れ
五日 天気、少し曇り、朝、地張する、十時ころつごう四度ばかり、
六日 天気、地震あり、強い、
七日 同じ
八日 曇り、地震、同断じ
九日 八日夜より大雨、夜、ところどころで鳴る、地震は穏やか
(改頁)
一、御組々の御救を頂戴する人別の割賦調印のため、早々に差し出すように、直段方にて申し聞かされた、御代官所へも同様に差し出すこと、これまた申し聞かされた、四月八日 等々力より、
右を中田より九日に参り、即刻藤森へ継ぐ
宗門帳請取期限
四月三日 庄内組・山家組・岡田組
同じく四日 嶋立組・高出組
同じく五日 上野組・成相組
同じく六日 長尾組・保高組
同じく八日 松川組
同じく九日 池田組
同じく十日 大町組
十一日
(改頁)
宗門改の期限
四月十二日 大町組・池田組
同じく十三日 松川組・長尾組
同じく十四日 成相組・保高組・上野組
同じく十五日 高出組・嶋立組・庄内組
同じく十六日 岡田組・山家組
右のとおり御改の期限が仰せ出だされた、
一、去冬に極難の者たちに御救籾を二十俵下し置かれ、今年の春に割り当てて渡すものは、正籾にて下されると御達につき、、左の人別に三月二十日までに割賦すること、もっとも難渋の人別の取締方を、草間・藤内組で相談し、しかるべく沙汰をして割渡す、
(改頁)
宮淵村
籾一」俵五歩 ろく
同三俵 五郎蔵
桐原分
同三俵 啓蔵
同一俵五歩 平八後家いそ
蟻ヶ崎村
同二俵 す幾
同二俵 加具
三才村
同一俵五歩 勝左衛門後家まり
庄内村
同一俵 この
白板村
同二俵 弥右衛門後家はる
埋橋村
同壱俵五歩 利右衛門後家その
合わせて二十俵、
右のとおり御割賦下し置かれた、
(改頁)
十日 雨、九日夜より大雨
地震もたびたび、昼零時に大風にて所々痛みありと申し立て、立木などが倒れた、
十一日 快晴
一、御組々の中馬稼をしている者の有無について申し上げるように申し聞かされたので御承知願いたい、四月十日 藤井より
上条へ十一日に継ぐ
一、熊倉橋の修覆ができた、御見分については、追って日限を定め申上げる、まずは、橋の完成したことを早々に申上げたい、藤森より、十一日参る、金井を遣す
(改頁)
十二日 曇る、地震折々
十三日 十二日夜より雨、地震折々
十五日 天気、地震折々
十六日 天気中是、地震折々
この日、宗門御改につき、我ら鍛之助出勤する、鍛之助は朝八時前に出る、
一、御才覚金について、かねてから相談申し上げよくできてきたが、大町組と池田組は格別に大変で、人気にも差し障り
(改頁)
申すべくと御含下し置かれ、右の組より願につき御詮議のうえ、大町組は格別のことであり、まずは御見合わせることになり、池田組はなるたけ才覚いたすべく、もっとも御含の場合もあると仰せ出だされた、これによって、その場合は早々に御一同へも相談の上、御詮議になる筋合いであるが、何を申しても、急場のことなので、この御詮議筋が仰せ出される旨を、御一同へ御通達申し上げるように御通所にて申し聞かされたので、御承知願いたい、四月十四日 清水勘右衛門・等々力伝右衛門・丸山杢右衛門・藤森善太夫、
(改頁)
なお、御領分と御預所で融通しても、余りがでるので、御地頭までも御融通したい、しかしこのことは心得のために申し上げると仰せ聞かされた、
地震につき、稲苗揺れ寄り、生育がよろしくなく、不足の村々があるので、それぞれ当年はとくに大切に養いたい、余った苗があっても粗末にしないように、不足している村に融通すること、御領分で融通が出来ても、余った苗があれば、御預所へも御融通すること、ただし御預所に余りがあれば、御領分へ融通してもかまわない、右のとおりなので、銘々心して養育に念を入れるようにと、郷御目附より御達があったので、御承知のこと、四月十四日 等々力伝右衛門・丸山円十郎・藤森善太夫
(改頁)
十七日 天気、地震少し
十八日 天気、地震折々
十九日 雨、地震夜中
二十日 天気、雨夜、地震、中の大
中田より申し参り、即刻上条へ
一、稲苗の不足と余り苗を取り調べて、早々に申し出るように、二十四日までに申し出るように知らせた、
二十一日 天気、地震少々
一、
白板の庄左衛門持家へ、東町の長十郎弟重助が引越たいとの願いがあった、
一、上横田町の兼松が7、白板村の幸十家内へ引越たいとの願いがあった、
右は、町方より願い出たが、今もって願が出されないので、詮議の上、早々に願出るように、
一、筑摩村の社など風で折れた木の見分に及ばない品は、勝手次第に片付けるように、
(改頁)
御達し
桐原分 長右衛門・重兵衛、松本分町分 庄屋、宮淵村 喜代次・宇十郎・茂助・半右衛門、右の者たちは、通用金が滞っているので、早々に上納するようにとの御達があった、
河野左吉・青木又之助、小嶋村 利右衛門・五左衛門・元右衛門後家くに・弥兵衛・村役人、白板村 喜八・牢舎松次郎、
当人の印形と村役人の印形を持参して来ること、右の者たちは、明後二十三日に当人たちと
(改頁)
村役人の印形を取り揃えて持参するように、いつもの時刻に遅れないように来るように御達しがあったので、御承知されたい、丸山円十郎・中田源二郎
右は遅く参ったので、二十二日朝に申し遣す、
二十二日 天気、地震
二十三日 同じ
庄内村分中条に逗留の円十を、小柳津門馬殿の若党として抱えても、村方には支障がないかどうか、人物とうについても御尋があったが、引き伸ばしてきたが、今日になった否と申し出るように御沙汰があり、申し出た、四月二十六日 高橋相蔵より
(改頁)
右は二十四日に申し上げた、もっとも円十は、伊勢町の人別であると申し上げた、
一、庄内村の伝五郎と申し者が、拾い物があると、今日御届申し上げたが、これは六か月のあいだ建札をして尋る者がいなかったので、その旨を申し出たと御達した、
一、庄内村へ尾州領の者が参り、煩っていて村送りするように御沙汰したが、、書状を添えて指送るように御達のところ、明日にも差し送りたいので、差し送る前に候、送り書面を御内見するように郷御目附より御達があった、上条より
右は二十四日に申し遣す
二十四日 雨、地震、昼に一回、強い、
(改頁)
一、庄内村ほか十三か村の役人が、通用金の拝借願、御貸付になったと御達があった、河野藤六・青木又之助、埋橋村庄屋伝右衛門、
右は来る二十八日に御呼出しにつき、御達になった、
庄内村の伝五郎は、今月二十二日に拾った品を、御役所に持参するように、もっとも明日御呼出の御達になるので、御承知おきを、栗林より
右、直ちに申し遣す
(改頁)
二十五日 天気、朝雨、地震折々
書付をもって申し遣す
松本分庄屋伊兵衛、右の者に御用があるので、明日二十六日朝十時に、印形を持たせ、村
役人が召し連れて出るように、四月二十五日 郡所より
右を桐原分へ申し遣す
書付をもって申し遣す
その方とも、御用があるので、来る二十八日朝十時に罷り出ること、四月二十五日 郡所より
藤井佐左衛門・中田源二郎・折井伴右衛門・上条覚左衛・中沢権右衛門・丸山杢右衛門・藤森善太夫・上原仁野右衛門・山崎三十郎・栗林七兵衛・西沢九之丞、
中田より二十六日夜四時頃参り、二十六日の午前八時頃に上条へ継ぐ、
(改頁)
二十六日 天気
鍛之助出勤する、
一、松本分庄屋伊兵衛、今日御呼出、川井一作一件についてお叱り置かれる、
二十七日 天気、地震、昼三回
二十八日 出勤同役共、藤森善太夫・丸山杢右衛門・上条覚左衛門・上原仁野右衛門・中沢権右衛門・山崎三十郎・中田源二郎・藤井澄之助・栗林相之助、
一、池田・大町、さきに御三の間へ召し出され、左のとおり仰せ渡される、
(改頁)
大町組・池田組大庄屋へ
今般の地震について、その組村々ならびに御他領などにおいて、死亡人の取調べがあり、来月六日に大町村の弾誓寺で、施餓鬼を執行することを仰せ付けられたので、参詣したい者は勝手次第に罷り越すこと、この旨を可罷越候、此旨をとくと承知し、右村々の者へ申し達すこと、なお、委細については、郷目附へ申し達す、
庄内組・成相組・長尾組・山家組・嶋立組・上野組・高出組 大庄屋
右は、山家小路(やまべこじ)の念来寺において、
外同〓、
(改頁)
郷目附の御達し
一、今般の地震について、死亡人のために来月六日、弾誓寺・念来寺において施餓鬼の執行を仰せ付けられたので、以前死亡人の身寄の者より戒名を差し出させ、右寺へ村役人から渡すように申し達す、郷目附高橋相蔵殿より申し聞かせる、
一、今般の地震について、焼失や水難のために、松代御領・飯山御領ならびに善光寺そのほかの者が家はもちろん、田畑などもなく、極難の者が御領内へ追々罷り越すと聴いている、こうした者たちが参ってきたら、親切に応対し、住居に逗留したいという申し出があれば、村役人場において生所身元をとくと確認し、大庄屋場に申し出で、さっそくに願いを差し出すように、もっとも、その村の請入書は追って取り差し出すように、
(改頁)
不実のないように、御達、
右村々へ二十九日に達す、
庄内組宮淵村藤三郎娘りか・茂助
右の者は、善光寺にて、三月二十四日夜に焼死、
庄内村組頭五兵衛・五兵衛後家津き・七左衛門・十郎次・周蔵・七之丞忰寿三郎・房右衛門忰祐次郎・同人後家里う・市郎兵衛借屋常右衛門・同人妻せき、
右は、稲荷山宿にて三月二十四日の夜、焼死、
右の者の戒名を取り調べること、
(改頁)
一、右の以外にも被害者がいれば、戒名を認めて村役人より右の寺へ差し出すこと、
一、今年の春からとかく不順が続き、ことに丙午(弘化三年)丁未(弘化四年)は、御上でもことのほかご心配され、今年も筑摩八幡・宮本神明・穂高明神で御祈祷もしたほどで、こ御祈祷のおかげで、松本の御領分は格別の痛みもなく、ありがたいことだ、右は御領分惣代として、同役のうち伊勢・鹿嶋へ参詣をし、なおそのうえに武運長久・御領内安全の御祈祷をお願いしたいと相談し、郷御目附へないないに伺ったところ、このうえのない寄特のことであり、その旨を申し上げた、追って沙汰があるだろう、もっとも参詣すべきであ、献上については出立まで御沙汰
(改頁)
があるだろう、いずれまた罷り出る名前を申し、何日頃に出立するのか申し出るように御沙汰があり筑摩に一人、安曇ニに一人ずつ、両所へ二人ずつ申しあわせ籤ひきとした、伊勢には我ら等々力、鹿嶋には藤井・山崎が籤にあたったので、いずれ夕方に発つが、碑はまだ決まっていない、
(改頁)
人参一両、松脂一斤、白米五合、右丸して用いる、十五人三日の食事に成る、
○黒豆五斗、水にて洗い、こすきに入れて蒸すこと三回、黒い皮さり、また麻の実三斗を水に浸して一夜蒸して、三回、いずれも一回ごとにこさせ、麻の実の上の皮を開いて残日に干す、その皮を去り、うちの肉ばかりを入れ、右の黒豆の蒸したものを一か所に臼に入れ、手杵にてよく搗ませ、粒がなくなるほど搗いてから取り出し、よく握り拳ほどずつに丸め、また甑に入れ、夜の八時より零時まで蒸し、釜のなかの湯が減ってきたら湯をかえて蒸しり、そのままで火を引き差り、翌暁四時頃に甑(こしき)
(改頁)
より取り出して冷まさし置き、昼零時に日に干して粉にする、それからは湯水等をやらずに、粉ばりす起す、飽きるまで申し給うこと、その後はいっさいの食物を食べてはいけないとのことである、
○右は、官工丞人春田播磨、医師墾田永年、右両人が相し、四十日ほど差しさわりなくこらたとのこと、
六月十日、桐原分沢村の定吉は、来る十三日に御町所へ御用につき、村役人とともに罷り出るように御達、同役より「
(改頁)
六月十日、御奉行所の定之進様が今晩暁四時に時御出立にて、、御徒士町通りの重柳村へ御越になるので、御案内するようにと御沙汰があったので御承知願いたい、六月十日夕、
願い奉る口上の覚
蟻ヶ崎村の鉄蔵娘いは、このたび松本安原町の平十妻に縁組差し遣し申したい旨、願い出たので、御許容下し置かれるよう願いあげる、
高出組高宮村の東弥聟養子庄五郎このたび勝手につき、当村の市郎兵衛借屋に、今年の六月より来年申年(嘉永元年)
(改頁)
六月まで逗留したいと願い出たので御許容下し置かれるよう願いあげる、
一、諏訪御分地埴原村(はいばらむら、松本市中山)の甚助が、このたび勝手につき、今年六月より来年三月まで、当村磯右衛門方に逗留したいと願い出た、もっとも右村より請金書を私どもへ請取ったので、写しをとった、
一、当五月九日晩、品川宿より繩抜けをして逃げ去った、呉服町喜兵衛店に元住んでいた与八、歳三十二、中丈小作リ、中肉小太リ、丸顔、頬こけ、
(改頁)
色浅黒く、眼細く、囗小さく、小鼻ひくい、耳尋常体、眉毛細く、髪少く、
一、上総国(かずさのくに、千葉県)竹岡村の出生にて、江戸言葉が交り、言舌いたって低く、柔所和なる方
一、十年ほど江戸表に店を持っていて、印旛沼の堀割のときと日本橋の外川筋を掘るときに働いていたという、船乗そのほか国々に知人が多くあるとのこと、
一、右の者は、たぶん中山道(なかせんどう)に出て、信州の地震の跡の御普請人足にたぶん雇われているとの噂である、未七月
右のとおり公儀より仰せ出されたので、村々下々まで連絡が行き届くように申し達す、
(改頁)
見つけたならば、早々に差し押さえ差し出すこと、この旨を組下の村々と寺社へ洩れのないように申し達す、七月
右のとおり御達があったので、その意をうけ、小前(こまえ、小百姓)まで早々に申し達すこと、七月十一日
日光山神主の五見和家と申す者に、この間、御領分で勧化すると聞き、そのようなことがあるかどうか、明日までに申し出ること、もっとも、許可された勧化のほかはできないと、、この神主が廻村しているので、とくと取調べの上、明朝までに間違いなく申すこと、
右のとおり御尋があったので、この始末を明朝御役所前まで出ること、七月廿三日
覚 庄内・蟻ヶ崎
一、両村で四日・五日に二十四人に申し聞かせたが、振り合いちがいのため、承知
(改頁)
せず、銘々が申し聞いたので、前書のとおり申し遣わした、もっとも帳面を願ったので、余分に申し遣わしたが、二十四人申し遣わしたが、送り人足を申し遣したが、届かなかったのか、また、白板より承り参ったが、当日分は明朝に拾い上げ遣わされた、書付でその旨を申し遣した、このことを御状者日光今宮神主が、そのために廻村したので、前村で振合で百文を差し遣わすべく、もっとも、送り人足は、これまた、前振合のとおり、差し遣遣わすべく、桐原分
右神主、四日と五日に罷り越し、御免勧化を申したが、他出していてようすがわからず断ったので、ありあわせの品を差し出し、四拾八貫を差し遣し継ぎ送った、埋橋村
一、右神主は、当村へ参った与八、御免勧化とは申さずゆえ、
(改頁)
御廻米蔵会所修覆につき、明後晦日に見分を請けたいと、懸り役人より申し出があり、明
後日に間違いなく御出勤下されたい、
(改頁)
八月朔日 天気
宮淵村の才八・喜代蔵、立入人、小屋村の増沢治左衛門
右の者たちは、明後三日朝十時に、御預役所に御用があるので、遅刻しないように罷り出るように申し達す、
二日 天気風
三日 二日夜二時頃より雨降る、大降り
一、毛附駒の御改、荒井村の組頭幸左衛門方にて五日御改め、上条より申し参る、即刻金井へ継ぐ
(改頁)
庄内組庄内村弥助・埋橋村五郎左衛門・桐原村つる・宮淵村勘右衛門借屋源次郎・渚村今朝次郎・〆五人、高出組野溝村奥右衛門・弥五郎悴亀松、吉田村富次郎弟又次郎・〆弐人
右の者たち除帳願が許された、
(改頁)
別紙人別除帳(帳面から除く)願が許された旨、仰せ出だされたので、御承知されたい、九月朔日
おって、掛郷夫急いで差し出すように、宗門旨にて申し聞かされた、なるたけ急いで差し出すようにとのこと、通知を申し上げる、九月朔日
(改頁)
先年久離除を御願い申し上げ、当時どのようになっているのか御尋人は左之のとおり
一、先年除帳になった者、庄内村甚助借屋長三郎
一、先年御仲間にて江戸表においておゐて欠落(かけおち)し、久離御願申し上げ、除ニになったといい、四十か年あまりになるという、当時除かれた者、蟻ヶ崎村万之助
、一死去したので御届け申し上げ、そのうえ除帳になった者、宮淵村和右衛門伯父清右衛門
一、右と同じ、白板村儀右衛門借家六之助甥清三郎
一、右と同じ、宮淵村甚助妹とく
一、右と同じ、白板村佐七後家借屋又次郎
一、十五、六年以前、佐久郡あたりで死去したので除帳になった者、桐原分清右衛門借屋広八
一、死去したので御届け申し上げ、除帳になった者、宮淵村犬松借屋浜吉
一、久離御願い申し上げたときに直ちに除帳になった者、幾四郎娘きん
(改頁)
一、上州(群馬県)高崎あたりで亡くなって除帳、中林村小右衛門兄鋲次郎
一、立ち戻り帰住が許可になり、御仲間奉公をしている者、宮淵村幾四郎悴幾太郎
一、福松こと弥助、、先だって除帳が許可された人別である者、庄内村十郎次借屋太助悴福松
一、生死と行方不明で、このたび除を御願い申す者、中林村与三右衛門悴喜代太郎
一、久離を御願い申し上げたとき、直ちに除帳した者、鎌田村太郎右衛門弟吉三郎
一、先年久離を御願い申し上げたところ、このたび立ち戻り帰住の御願いを申し上げた者、庄内村佐助後家たき悴伊左衛門
一、先だって帰住の御届を申し上げ、差し入り仰せ付けられて村方人別になった者、利右衛門悴与兵衛
一、今もって生死と行方が不明で、先だって博奕掛り合いで欠落し、このたび久離の御
願いを申し上げたい者、清宝院玄明
一、先年御願いしたときに、直ちに除帳を御願い申し上げた者、宮淵村恵左衛門家内入栄吉
一、今もって生死と行方が分からないため、家内が難渋につき御預所二子村(ふたごむら、松本市笹賀)の妹聟三右衛門方へ去年五月に引越した者、桐原分円右衛門
一、今もって生死と行方がわからないと心底よろしくない者なので、このたび久離除帳の御願を申し上げる者、庄内村吉弥
(改頁)
九月朔日 天気、西山あれ見える
朔日参り二日に帰る
一、このたび和田宿(中山道の宿場)より宿立人馬が不足なので、村への派遣があり、御公役村がらの御見分があるので、懸り御手代広瀬小左衛門殿・御同心笠井金蔵殿のふたりが、浅間村庄屋忠九郎方へ出張するゆえ、我ら参る、ほかに、金井藤井村役人と浅間庄屋二人・惣社庄屋・筑摩庄屋・南小松・湯原庄屋二人が罷り出る、三日朝まで
九日三日 天気寒し、大霜
(改頁)
九月四日 朝、夜雨
九月五日 天気
当流御改に通し御出張があるので、例の御用十割御心組があり、、早々に御差し出されるように申し聞かされた、九月五日 上条覚左衛門・金井源左衛門より
先だって御談申した郷夫について、雑司橋(ぞうしばし、松本市安曇の梓川に架かる橋)の見分について御相談申したいので、来る八日に御出会下さるように、八月八日、
上条覚左衛門・金井源左衛門より、
右二通とも、九月六日夕方、中田より参り、中沢へ七日に継ぐ、
(改頁)
九月七日 天気、あたゝかい、昼後より風
九月八日 天気
九月九日 天気、夜に入り少し雨
九月十日 曇
一、御奉行方の川筋御見分が済み、押野村(おしのむら、安曇野市明科)を早朝に御出立、六九(ろっく、松本城下)を廻り御帰り、池田、同役より通達書状、藤森より亥午後十時頃に出、十日お昼の十二時に届け、直ちに村々へ達す
一、渚村の喜代太郎拾という者は、六か月建礼を仰せ付けられ、来る二月に届ること、
三才村与佐次郎・庄左衛門、
(改頁)
右の者、明十一日に村役人と召し連れ罷り出るように、等々力より通達、直ちに達す、日入頃
九月十一日 天気、曇る
一、鍛之助出勤する、
九月十二日
書付をもって申し遣す
このたび江戸表において御出生の御男子様、御名は左京様とつけられたので心得ること、右のように「左」と申す名は相改めるべきこと、もっとも文字が違えばかまわない、このことを組下の村々と寺社へも洩れのないように触れること、
(改頁)
九月十日、郡所より
右を御配符、十二日夜八時過ぎに中田より参る、十二日朝に上条へ継ぐ
九月十三日 曇る
九月十四日 朝少し雨、十時時頃より天気
一、雑司橋の見分に鍛之助が罷り越す、ほかに同役の金井・上原・小藤井・我ら方廻り寄り参る、ほかには、中田・小上条・小藤森・小等々力が参った由、
九月十五日 天気
一、朝、甚五郎が参って申し聞かしたことは、等々力が伝言にて申したことは、重柳村光寺川除出入、ことのほか御役所にても御心配のことで、今日も午前八時に御役まり、昨夜は夜明まで、はなはだ心配して罷り出てくれるように申し参ったので、直ちに罷り出でたところ、郷御目附にて幸いにも罷り出でたので、首尾よくいったので、、とくと利害を申し聞かせて承知するように達しがあった、せいぜい利害を申し聞かせたが承知され
(改頁)
なかった、夜零時戻った、
九月十六日 天気、曇る
一、等々力より、重柳村がようやく承知したと申し参る、
九月十七日 天気、同じく曇る、
九月十八日
一、伊勢町等の願いを小島伝三郎へ渡す、もっとも鎌田権右衛門を相手取り、
一、朝、宮淵村役人を相手取り、手鎖(てぐさり、手錠)村預ならびにそのほかの者を御呼出し、当日御召し出すという御書が朝十時頃参り、仲三郎が直ちに達す、
一、右の者が罷り出たところ、役人に対し申し分ないので、御吟味を御流し、御聞き届けたので、入牢手鎖の者が許された、
一、埋橋村の定郷夫丑之助が病死したので、代りの人を差し出すように、庄次郎より申し参り、同人より埋橋へ通達したと申し聞く、
一、和田宿より宿立人馬が不足につき、差村所に付け出スすと、付人庄次郎が申し達す
一、庄内村の弥五右衛門の垣の外の麦柄のうちに捨ててあった品を、御役所へ差し出すように、庄次郎へ申し聞かせ、同人より庄左衛門へ通達するように申し聞かせた、
(改頁)
九月十九日 天気、曇る、少し風
一、蟻ケ崎村郷蔵済口(すみくち、落着したこと)の写、源十郎は持参、
一、征矢野村・蟻ケ崎村の郷蔵建替のための諸木代、村役人へ左のとおり下された、
村方代積より八百六十二匁減
一、五両二分 征矢野村 三貫六百四拾九文 村方積りどおり
一、七両三分二朱 蟻ケ崎村 二百六十六文
〆て十三両一分二朱 三貫九百十五文(ママ)
右のとおり下された、
九月二十日 天気
九月二十一日 同しく天気、曇、出勤
一、同役藤森・藤井・上条が出勤
一、白板・宮淵・渚・筑摩、久離願いを出す、
一、渚村藤吉、水車屋御請書出す
(改頁)
一、白板の伊三郎の尋の御受書
一、逗留願いを出す
庄内村の弥左衛門・七蔵、白板村の栄左衛門・忠蔵・庄助、桐原分の半右衛門・仁兵衛・源吉、右の者たちの通用金が滞り、二十二日申し遣す、
一、御才覚金を十月二十日に上納と、同役より通達、藤森へ継ぐ、
九月二十二日
九月二十三日 曇る
九月二十四日 同じく曇る
(改頁)
九月二十五日 曇る
一、木綿短尺について、去る卯の年(天保十四年、弘化四年より四年前)八月に御世話があったところ相流れた、当所の木綿については多分絞り等など相成り、遠国までも引き合いになったところ、短尺がなくては御政道にも差し障リ、つまるところ衰微のもとにもなってしまうので、以来上物三丈・幅一尺、中以下二丈八尺あまりに織り立てるように達する旨、産物所にて申し聞かされた、このことを御通達申し上げたい、九月十八日 金井左源太・中沢権右衛門より、
藤井より九月二十四日夜に参る、もっとも藤井に滞る旨を、断書を添えて二十五日朝に上条へ継ぐ、
一、御奉行方が二十五日に松川組を御出立にて御帰りになると、清水より通達、もっとも清水より書状二十四日の午後八時頃に出る、藤森より二十四日夜中の十二時に出る、二十五日午前十一時に参り直ちに達す、もっとも御奉行は新田町に御昼の由、申し参る、
(改頁)
九月二十六日 朝曇る
一、御奉行方が今晩零時に御出立、保福寺道を通り御出府になられるので、御道筋では例
のとおりに申し達すように仰せ出されたので、御承知されたい、九月二十六日 丸山杢右衛門より、
一、御通用所の御才覚は左のとおりに取り調べて書き出すように申し達し、
一、何十両 何村
内 何十両 七月迄、何十両 十月迄
右之のとおりに認めて、近日のうちに差し出すようにと、御通用所にて申し聞かされた、但し利盛に入用にて急いで取り掛り、延びることのないように
(改頁)
くれぐれも申し聞かされた、
一、岡田組・庄内組・保高組の組々の人別帳が未だ御差出がないので、至急に差し出すように申し聞かされた、御承知されたい、九月二十三日 中田源二郎・藤森善太夫より、
九月二十七日 朝曇る
一、御収納之の儀、来月二日に御収納方差し出され、三日寄納、引続き村々に納め仰せ出されるように御承知されたい、九月二十五日 上条覚左衛門・藤森善太夫より、
一、国役金の明年の銀高目録を添えて、日限も例之のとおりに差し出すべく、出間中部屋にて申し聞かされたので、御承知されたい、同日 右同人より、
(改頁)
九月二十八日 曇
九月二十九日 雨
九月三十日
(改頁)
十月一日 天気
御収方 宮村町鈴木彦助、中ノ丁(松本城下)細井会次右衛門、
十月二日 天気
十月三日 同じく天気
十月四日 同じく天気
十月五日
十月六日
十月八日
十月九日
十月十日
(改頁)
十月十一日
十月十二日
十月十三日
一、郷御目付より罷り出るように申し参ったので、先日罷り出たところ、御塚の石垣が御出来になったので、山部(やまべ、山辺)・岡田・庄内の三か組にて人馬と冥加(謝礼金)を差し出すように、もっとも、人足と扶持籾を下されると仰せ聞かされているので、先日は金井が不参加だったので、十三日に金井・藤井・我らが罷り出で相談したところ、申談そのとおりで御請申しあげた、もっとも、石持人足は遠近もあるので、場所等を伺い置いた、これについては、委細は埋橋村庄屋の三溝伝右衛門へ申し達す、割等するときは、」組中へも相談するよう達す
(改頁)
御塚石垣
一、二千六百五十四人半
一、手伝人足四百十四人七分七厘
一、石持人足百四十八人半
御敷石
一、三百駄
一、手伝人足八十三人八厘
両御門前縁石
一、百十駄
一、角石持人足十二人
一、上石二十八駄四分
惣〆て四百九十七人八分五厘、手伝人足百六十人半、石持人足三千百二駄九分
右は御作事所より御掛合の書付の写し、伝右衛門へ相渡す
(改頁)
十月十四日
十月十五日
埋橋村定郷夫 午之助
十二匁三分六厘、右は給金渡し過
二十五匁六分二厘、薪そのほか渡し過
〆て三十七匁九分八厘
右のとおり上納差し出すように御達し、埋橋伝右衛門へ直ちに達す、
三才村の庄左衛門と与佐二郎は、明十六日に御呼出し申し参リ、直ちに申し遣わしたところ、書付延引の由
(改頁)
十月十六日 鍛之助出勤、
一、三才村の庄左衛門・与佐二郎を御呼出し書付、三才村へ同日朝日ノ出る頃に参ったところ、与佐二郎は川手あたりへ参る間に合兼申し、もっとも、飛脚はただちに遣す由、組頭申し出る、
一、御才覚金を差し出していない庄屋・組頭の名前を、急いで差し出すように御通用所より申し聞かされたので、御承知されたい、十月十五日 藤森より、
右、十八日に中田より参り、十九日に上条へ継ぐ、
十月十七日
(改頁)
十月十八日
一、桐原分の新堤土手笠置眼付をしたいので、上り地の斗代増拝借したいという願を差し出したので、差し上げたところ左のとおり申し参った、
一、別紙の堤願書、年賦拝借にて仕立たが、御見分のうえ御目論見を請けてしかるべく、その願意に認めなおして差し出すように申し聞かされたので、よろしく御取り計からい可くだされたい、十月十八日 藤井・中沢より、
右を桐原へ申し遣す、すぐに願書を返す、
(改頁)
十月十九日
三組にて御塚御普請の人足を寄持に差し出したい旨、思し召され御満足であるが、このたびは、御請ない旨仰せ出されたので、御承知されたい、藤井澄之助・中沢権右衛門より、金井より参る
一、三才村の庄左衛門が、金談出入由緒を相談中につき、御呼出しのないようにと申し上げたところ、日の期限がなくてはよろしくないので、何日まで延したいのかを申し出るように御達しがあったので、御承知されたい、藤森より
右を三才村組頭へ申し遣す
十月二十日
(改頁)
十月二十一日 大雨、終日
一、筑摩村の組頭紋右衛門が参り申し聞したことは、昨日江戸表の庄二郎方より書状が参り、別紙のとおり申し越してきた書状、
一、金右衛門悴音十は、当四月に助十・徳十頼にて、御上屋敷御出入髪結の伊三郎と申す者が請人で、小柳町(松本城下)名主岡田氏と申す方へ奉公して、江戸所々洗場にて盗みをし、九月二十八日に御召捕られ、自身番に上げられ、、北の御番所鍋島内匠様へ御召し出しのうえ、入牢を仰せつけられた、もっとも手入したが松本の無宿者である由、助十より金子を差し出し、右の場へ頼みこんだところ、我等が出府して、その後に御慈悲を頼み、または又御呼出しがあって、右入用が必要となり、このうえ、解決したならば済方之節よほど相掛りると、伊三郎よりも掛合がった、助十よりも頼みがあり、右内々に致し置き、お頭半右衛門と紋蔵・九左衛門・松弥が話し合った、
(改頁)
さりながら松本無宿と申すことはいかになることか、安堵できず、かつ御掛り様へも御内々に申し上げたが、ついでに親方へもお頭をもって御内々に申し上げたい、
一、右金右衛門悴音十、久離願を九月に差し出したが、六か月間も預り置いていたところ幸いに、月を付け直し、右の趣を申し上げ直し、除帳してくれるように同役方紋右衛門に持たせ頼み遣わした、
一、当用捨割御取り調べ、この者へ御渡しのあるようにしたい、
十月二十一日 松田五六太夫
折井伴右衛門殿
追って、両島村川除について難渋を申し出でたが、かねて御承知あるべく、申し上げる、
(改頁)
右の埋橋村組頭平左衛門が持参したので、返事を左のとおりに持たせ遣す
一、三十七石六斗六升六合 宮淵村
連々難渋のところ、、そのうえ田沢山雑用出入が難渋につき
一、二拾石 両島村、川除難渋につき、
一、二拾石 渚村 同じく、
〆て七十七石六斗六升六合
右のとおり御用捨内割差し遣す
十月二十一日
蟻ケ崎村の与左衛門・富右衛門・半兵衛・ほか八人の者たちは、通用金返上が滞
っているので申し遣す、折井仲三郎
明後二十三日、郷目付御用を申し遣す、
(改頁)
十月二十二日 曇る、雨気ある
一、駒(コマ)のつぶれ辺りに、行き倒れ人がいるので、宮淵・蟻ケ崎・白板役人が立会って見たところ、年頃三十歳あまりで男のようだった、宮淵村の畳屋仁兵衛と申す者は参って見届けたところ、古厩村の酒屋太四郎と申す者の由、昨二十一日に仁兵衛と太四郎方へ仕事に参り、仁兵衛は朝早く出て、そのあとから太四郎は二十五日の婚礼のため、町方へ買物に出て、飯田前茶屋にて仁兵衛と落ち合って酒を喰み、その後に仁兵衛と同道にて、新橋(しんばし、松本市島内)の伊右衛門方でまたまた酒を喰み、仁兵衛方でもまた酒をのみ、夜八時過ぎになったので、仁兵衛も留めたが、町方へ参るといってふちんかり出かけた由、もっとも、ほかに由緒の者も先へ参った由、右御届け申すところ、御見分があり、太四郎の持つ金子はこの者に間違いがない、
(改頁)
十月二十二日
十月二十三日
十月二十四日
一、夜零時頃、早鐘が打たれたので見廻ったが、いっこうに火も見えず、家来を遣して見たところ、中町(なかまち、松本城下)の広福寺表の荒神堂あたりにある干草が燃えだ明日由、申し参った、
一、宮淵勘右衛門印形并ならびに村役人印形を持参し、明二十五日に御呼び出し、直ちに東(東折井家)へ申し遣す、
(改頁)
白板村茂助、渚村福助・兼松、宮淵村茂右衛門・富三郎・佐恵松、筑摩村沖治郎・繁治郎・音十・幸七、右の者たちは久離の御聞き届について同役より通達があり、二十五日に達す
十月二十五日 雨天、風
水車の臼数と冥加調について、正月から十月までの間に、新願または止願などがあれば、取り調べて急いで差し出すように
(改頁)
と申し聞いた、もっとも年内中のところも取り調べて差し出すように御達があったので、御通達申し上げる、十月二十四日 上原弘野右衛門より、
右中田より二十五日の夕方参る、二十六日の朝中沢へ遣す
十月二十六日
一、白板村の永次郎の久離願を御聞き申す旨、御沙汰があった、
一、明後二十八日、放光寺山近辺にて、大筒の稽古があるので心得ておくこと、御承知されたい、金井佐源太より、
十月二十七日
(改頁)
一、献金の義、来月上納の旨、沙汰があった、もっとも期限についてはこれまでのとおりと聞いている、、御承知されたい、二十六日 同役より、
右は、二十七日に参り、二十八日の朝に上条へ継ぐ、
十月二十八日
一、宮淵村の勘右衛門悴久兵衛は、村方と役人に関係した出入一件について御取り計らい方が本心に叶わなかったので、江戸表へ罷り越して直訴するということで二十四日に出発し、御預所和田村(松本市和田)へ、この由緒の方へ参り、それより和田堰一件について、和田村役人が出府していたので、幸い書状賃一分を受け取り、二十六日に江戸表へ参ると申し、罷り出たが行方知らずと申し、郷御目附へ御届け
(改頁)
仲三郎が罷り出で、右の仕来を申し上げたところ、何れ呼び戻すようにとの御達しがあった、その間もなく、、またの御沙汰では久離願いを早々に差し出すようにとの御達があった、と、仲三郎より申し聞いた、
十月二十九日
書付をもって申し遣す
当冬御立直段入札、例のとおり相認め、来月三日までに差し出すべきこと、十月二十八日 郡所より
庄内村の清宝院玄明・同村の善弥・埋橋村の在初右衛門従弟紋十郎、右の者たちの久離願いを御聞届けたこと御達する、栗林相之助より、
(改頁)
十一月一日 快晴
十一月二日 同じ
十一月三日 雨
一、御立直段入札について、鍛之助が出勤する、我は留主、
十一月四日 天気
十一月五日
(改頁)
十一月六日
一、鍛之助出勤
一、囲穀の詰め替え願いを近々差し出すように、
一、御用捨割願いを近々差し出すように、
十一月七日 曇る
十一月八日 あれる
(改頁)
十一月九日 快晴
鍛之助出勤、
書付をもって申し遣す、
金十両につき、籾二拾七俵 金納、籾二拾八俵 買納
右のとおり今年の冬の御立直段を仰せ出されたので、このことを組下の村々
へ申し触れること、十一月九日 篠田武右衛門より、
一、明十日、蟻ケ崎村庄屋・組頭、揃って部屋へ罷り出るように御達し、
一、御用捨割御廻米金納願い、蟻ケ崎盗難、渚同、出す
(改頁)
十一月十日 風
囲穀、組下の高御取り調べ、明日御差し出すように申し聞かされ、御承知されたい、
一、囲穀の詰め替え願書、近々指し出すように御沙汰があった、ついては、昨年御承知もくだされたとおりのことなので、今年については当組の囲穀高の願書を差し出し申すべく、この段よろしく頼みたい、ほか御組々へも江も御通し置下されたい、
一、囲穀願高について、中田氏より別紙申し参ってきた、昨年の物について高出(たかいで組)にて、組々分より余分の願いにて、今年よりはどうかと評定するべきと申し上げたら、御礼をいうように、
(改頁)
記憶している、昨年の評定にては高出組が申す場がもっとものこと、昨年と今年と申す場にて相済むことと覚えている、いずれも御評定によって御差支えのないように御請下され私は何卒出勤のところ御差し含み下されるようにお頼み上げる、
一、取締御掛りより申し聞かされたことは、先だって御沙汰のあった田畑、かり耕作計りにて、手明き相成り、村方は何ら御趣意ニに叶うほかの稼ぎし、相続の道に至り、村別の御取り調べを出して、早々にその理由を認めて申し出るように、ましまだ取り調げ届けができない組々は、早々に取り調べ、これまた引き伸ばしのないように申し達すので、
(改頁)
御承知ありたい、
一、御組国役御上納金、明十五日に御差し出すように申し上げる、
十一月十四日
十一月十一日
一、高四百五十二俵 囲穀組高
御目見御勘定 松村忠四郎様
右は、今日田沢村御昼にて松本に御泊り御越につき、野間御敷払を差し出すこと、
右は、御役所にいて鍛助より庄左衛へ達スす、
十一月十二日
十一月十三日
十一月十四日
十一月十五日
一、御子様、明日十時に浅間へ御入湯と仰せ出され、御道筋の者に御沙汰はないが、念のため申し上げる、中沢より、
一、囲穀願、明日中に差し出すように御部屋より申し聞かされた、丸山より
(改頁)
一、御廻米御改、何日頃よりしかるべく相談のうえ申し出るように、御代官所より申し聞かされた、何分にも御請高を御取りきめ仰せ下さるように願いあげる、中沢・丸山より、
右について、幸いに藤井・金井が居合わせたので相談し、この二十日頃より御改しかるべくという返事を遣す、
一、御組々のうちより、この間中、盗難届が多く、なかには土蔵の屋根を切り取り、または戸前(とまえ、蔵の入口の扉)を焼き破る類が四、五か所あったので、夜廻りを厳しく申し付けるべきだ、、もっとも夜半より別けて厳しく相廻るようにとの御達しがあった、御承知されたい、
(改頁)
十一月十三日 同役より、
右、十五日夜に藤井より参り、直ちに上条へ継ぐ、十六日組へ触れる
十五日夜雨、暖
十一月十六日 風、
一追鳥狩について、来る二十日に御出仕があるとのしらせの旨、庄内部屋にて申し聞かされた、御承知されたい、
十一月十五日
三月十七日
一、このたび、公儀において姫君様が御誕生されたので、思し召しがあり、表向には御披露目は仰せ出されないが、名は鋪(ノフ)姫君様と称える旨が仰せ出された、表向には披露目
(改頁)
はないけれども、右の鋪の字と同様に唱える名は改めること、
書付をもって申し遣す
別紙のとおり公儀より御触があったので、この趣旨を組下の村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おってこの書付は返すこと、郡所より、五月十四日
書付をもって申し遣す
矢原村忠兵衛は、今月五日に行方知らずとなり、家ごとに詮義のうえ、早々に申し出るように申し付ける、組下の村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おってこの書付は返すこと、五日十三日 郡所より
(改頁)
十二月一日 天気、零時、寒に入、暖し
書付をもって申し遣す
大町村にある御払麻の入札を仰せ付けられたので、希望者は入札を相認め、来る八日朝十時に御役所へ持参すること、もっとも、員数については大町村の麻問屋へ承合申すべくこと、右について組下の村々へ申し聞かすこと、希望のない組も、当日に相談すること、郡所より、
中田より二日に参り、上条へ直ちに継ぐ、
十二月三日
一、雑司橋の修復について、この間に御作事所より見分があり、別紙のとおり入札を仰せ付けられたので、組下の村々ニに希望の者は入札相認め、来る九日に当役所へ差し出すこと、もっとも希望
(改頁)
ない組も、当日にその旨を届け出ること、おって、この書付は返すこと、
木積覚
児柱
一、栂 長一丈 八寸角 二本
但し二つ切り、この分四本
高欄手摺
一、同 長二間 一尺ニ一尺弐寸角 五本
但し四つ割り この分二拾本
馬踏
一、同 長さ二間 一尺角 二拾五本
但し五つ割り この分百二拾五枚
附行桁
一、同 長さ三間 一尺二寸角 三本
但し鱠板に二つ割り この分六枚
〓木
一、同 長さ二間 一尺角 三本
但し四つ割り三つ切り この分三十六本
(改頁)
囲木
一、同 長さ二間 一尺角 四本
〆て四十二本 元代高
一、雑司橋の御修覆仕様注文
一、附行桁長さ三間・尺二寸角、九寸に三寸位之の鱠板にし、中行桁へ釘彫をし、大釘にて打形よく反附申すべく
一、馬踏板は長さ二間・幅尺・厚サ二寸、両側を取り合わせ釘彫をし、行桁ごとに釘一本打上目違所削り致すべき
一、高欄手摺長さ二間・五、六角、出来合削揃、上に水ころび附継手かぶせ、鎌込拾打形よく反附申すべく
一、児柱長さ五尺・八寸角出来、削上とかく中切、根堅め、よく手摺大入柄に致すべき、
一、〓木長さ四尺・五寸角、四、五寸位り削〓手摺へ?差し
(改頁)
いたし、下端木半分ほど木がき側行桁へ丈夫に打附申すべく、高欄高二尺ほど釘〆いたすべく
右仕様注文のとおり間違いなく仕立、諸入用の品はこの方より差し出し申すべく、もっとも木品は角物にて差し出し申すべく、大工・木挽扶持作料はいかほどと申す積り入札する、
馬踏
一、栂 長さ二間 一尺角 二十五本
但し五つ割り この分百二十五枚
この分木品御願之書面には、三十本あり、五本分につき願書を御直しになられ、すでに入札差免のゆえ、追って沙汰がある、
(改頁)
書付をもって申し遣す
その方とも御用があるので、来る十五日朝十時に罷り出ること、表勘定所より、
折井伴右衛門・藤森善太夫・丸山杢右衛門・金井源左衛門・藤井佐左衛門・等々力伝右衛門・上条覚左衛門・中沢権右衛門・中田源二郎・金井佐源太・藤井澄之助・藤森善兵衛・上条七之助・折井鍛之助・等々力良太・丸山円十郎、
おって、麻裃を心掛けて罷り出ること、
十二月十一日、金井に継ぐ、
(改頁)
書付をもって申し遣す、
庄内村組頭式左衛門・池上弥次兵衛、征矢野村庄屋重四郎・組頭久兵衛、桐原分庄屋一柳市郎左衛門、筑摩村庄屋百瀬庄二郎・組頭紋右衛門、中林村庄屋横内兵三郎・組頭三十郎、渚村庄屋此右衛門、宮淵村組頭藤三郎、埋橋村庄屋三溝伝右衛門・組頭平左衛門、
(改頁)
小島村庄屋伝三郎・組頭忠兵衛、鎌田村庄屋権右衛門・組頭喜兵衛、両島村庄屋仁兵衛・組頭佐伝次、白板村庄屋折井仲三郎・折井庄左衛門・折井武十郎、
右の者ども御用があるので、来る十六日朝十時に召し連れ罷り出ること、十二月十日 表勘定所より、
十二月に申し達す
(改頁)
一、水車当年より冥加、正月より十月まで御取立になる、当組分は〆て六百五十二柄、
その内、十柄は三月より十月まで、この籾三俵二歩、四柄は正月より九月まで、この籾九歩、六百三十二柄は正月より十月まで、この籾百五十八俵、
〆て百六十二俵一歩、
四月十六日
書付をもって申し遣す、
一、明十六日、日光山の御名代のため、殿様が江戸を御発駕になられるので、来る二十三日まで火の用心をとくに念人りに、騒動がましいことは慎むこと、この旨を
(改頁)
組下の村々と寺社へも触れること、おって、この書付は返すこと、郡所より、
(改頁)
弘化五戌申年(一八四八、嘉永元年)
正月元日
四月(一月か)十六日
書付をもって申し遣す、
蟻ヶ崎山廻り庄助に御用があるから、明後十八日朝十時に村役人とともに召し連れて来ること、そのときにこの書付を返す、郡所より、
小島村組頭忠兵衛、明後十八日に御呼出し、
(改頁)
二月一日
書付をもって申し遣す、
郷目附津村才右衛門代り高橋隆蔵、郡手代高橋隆蔵代り米山富之丞、同定補欠松田五六太夫代り蜷川規蔵、郡同心米山富之丞代り藤銀彦太郎、同じく蜷川規蔵代り牧野猪野太夫、同じく石井右衛門太代り平野円右衛門、
右のとおり仰せ付けられたので、その意をくんで、組下の村々と寺社へも洩れのないよに申し聞かせること、郡所より、
宗門方米山富之丞・小沢有喜右衛門・蜷川規兵衛、川除方牧野幸太夫・箕浦治左太・村部善蔵、
(改頁)
御部屋松田五六太夫代り貝谷彦之助・米山富之丞代り・大沢門太兵衛・箕浦治左太代り樋口和一、表御勘定所勝山八右衛門代り、御代官石井浅右衛門石井浅右衛門代り、吟味役喜多村小市・喜多村小市代り三原新太郎、手代定補欠三原新太郎代り安田圭右衛門、
(改頁)
一、夫銭について一昨年分を去年御調べがあったが、多分の増加になり、去年分を今年調べたが、これをもって増加した、もっとも格別の臨時については差し引いても、一昨年分は多分に増加となった、これについては、村々役人が自然と心得て知らせたのかと不審にも思うので、御取り締まりについて村役人は心得方を第一とし、けっして相馳せずに厳しく心得ること、そのように御承知されたい、二月十八日 藤森より、
おって、神田村にて銭富目論見の趣、右札を買い求めないように村々へ仰せ付けられ、郷目附より仰せ出だされた、中田・金井より、
(改頁)
一、神田村にて銭富札を買い求けることはしてはいけない旨を厳しく御達について、村々へ触れたところ、中条にて婦人一人が、新屋先の油屋義兵衛方に罷り在る、上野組の者のが一人買い取り申うさず相当たったと御沙汰があったので、庄内村へは別に申し遣し、なおまた組内へ厳しく触れた、もっとも、三月三日に富伴銭にて申すゆえにその旨を達す、
二月二十五日 夜明けに大地震
(改頁)
三月一日 天気、風少しある、
三月二日 天気、風、暖
三月三日 曇る小雨折々ふる、暖、夜大風
三月四日 曇る、大風雷雨気味、折々暖
一、籾二俵 筑摩村の岩蔵が極難につき御救い下し置かれ、直ちに遣す、
一、庄内村の喜源に、借屋、木曽の宮ノ越宿(中山道)より引越し願いが許された、
一、蟻ケ崎村の放光寺弟子引き取り願いが許された、
三月五日 天気、寒い、曇る、
蟻ケ崎村善蔵妻とみ、白板村紋之丞家内入きな、
(改頁)
右の者たちは久離除帳が許されたので直ちに申し遣す、
三月六日 天気、曇、風
鍛之助が出勤、
一、桐原分の正麟寺、明後八日に村役人と召し連れ罷り出るように御達につき、直ちに申し遣す、
三月七日 六日夜より大雪、朝およそ一尺五、六寸(約四十センチメートル)降る、終日雪、
三月八日 快晴、暖い、
宗門送りは大事なことだが、まちまちな取り計らいがあり、すでに天保十三寅(一八四二)三月に、しかと御達しがあったところだが、、今もって心得違いがあると聞く、もってのほかであるので、寺院も先寺より確かな送り証文を用意し、宗門請け合い印形すべきはずで来人
(改頁)
のときには村役人は元来の旦那寺から、これまた確かに宗門請合一札を取り、その村人別に書き加え、たとえ御他領より縁組み引越してきても、掛けあって取り計からうこと、今後なおざりにしないようにきっとちゃんと心得るように仰せ出されたので、村々寺院役人
へ厳しく御達のこと、三月五日 米山富之丞・組田蒸三、
八日に中田より参り、九日朝、上条へ継ぐ、
御差し合わせの名は左のとおり
慶 祥 光ミつ 則さだ 庸つね 尤ゆう 伊保いほ 濱はま 貞みさ 鋠しん 起おき 谷たに 文ふみ 重しげ
(改頁)
右のとおりなので、村々江へ洩れなく申し付けること、三月八日、
米山富之丞・組田蒸三・当山方山伏・羽黒行人・蛭子社人・梓神子、
右の者、来る十八日御役所で宗門御改をするので、例のとおりに間違いなく朝八時に罷り出るように御申し付けがあった、また、帳面を来る十一日までに差し出すように、これまた御申し付けがあった、右両人より、
八日に中田より参り、金井へ九日朝遺す、
(改頁)
中林村役人は、米吉こと惣次郎之の印形を持参し、明九日に御呼出があったので、時刻は例のとおり御承知されたい、三月八日 丸山杢右衛門より、
直ちに申し遣す、
三月九日 曇る、寒し
宮淵村伴助は、明十日に御町所に御用があるので、役人が召し連れて例のとおりに罷り出よと御達がああたので、御承知されたい、西沢九之丞より、
一、御家中の御才覚金が、当月分御下げになると御沙汰があったので、明十日十二時に庄屋が受け取りに来るようにと御達しがあった、
(改頁)
丸山杢右衛門より、
両様ただちに申し遣す
(改頁)
三月十日 夜より雨、寒い、
一、長谷川俊蔵娘が、鎌田村庄屋権右衛門の妻に縁組引き取り願いが許された、直ちに申し遣わす、西沢、
一、大豆の御差し紙を、小島村へ遣わす、
三月十一日 雨
元締り懸り、東で昼、
三月十二日 天気
綿作世話役より村々へ相談があったので、来る十六日に一組庄屋両人ずつ、右世話役郷宿罷り出るように御達しがあった旨、直段方より申し聞かされた、三月十日 当番より、
渚と桐原分へ相達す、
(改頁)
三月十三日 快晴、暖い
三月十四日 同じく快晴、暖かい、
一、三才村の東光庵が四月一日より法花経(法華経)千部執行願いを御聞き届け、直ちに申し遣わす、
一、庄内村池上弥二兵衛、明十五日に御町所に御用があるので罷り出よと御達しがあった、直ちに申し遣わす、
一、渚村幸右衛門、店商札を御下げについて受け取りに罷り出るよう申し遣わす、
三月十五日 同じく快晴、暖
三月十六日 曇、風、寒
三月十七日 天気
三月十八日 同じく天気
三月十九日 曇る、昼後雨
(改頁)
一、宗門帳面、一般の者と寺院ともに内判、大庄屋元で調べ、御改以前、左のとおりの期限で滞りなく差し出すこと、もっとも、村役人の奥判と寺院の奥判は、御役所で請けること、
一、前々に御渡された御条目は、大庄屋元にて村役人をはじめ御百姓ともに読み聞かさせること、御請書もそれぞれ読み聞かせよと仰せだされた、
一、一般の者と寺社の御請書印形を調べて持参すること、
一、宗門御改の当日は、無役帯刀の者たち、ならびに御殿守・神主・社人・五人組頭・御百姓ともに、御役所へ罷り出ることはひかえること、庄屋と組頭だけ罷り出るように仰せ出された、
一、宗門帳御役所へ御差し出しの節は、帳書の者をそれぞれ召し連れて罷り出ること、そのときに、左の帳面を取り揃えて差し出すこと、
浪人証文と山伏別証文、一般の者と寺社御請書、五人組帳、増減帳、持高帳、家数・牛馬帳、寄寺院書付
(改頁)
宗門帳請書の期限、
四月十日 庄内組・山家組、十一日 岡田組・嶋立組、十二日 高出組・上野組、十四日
成相組・長尾組、十五日 保高組・松川組、十六日 池田組、十八日 大町組、十九日
右の期限のとおり宗門帳面を朝八時に持参すること、
宗門改の期限は左のとおり、
四月二十日 大町組、二十一日 池田組・松川組・長尾組、二十二日 成相組・保高組
(改頁)
・上野組、二十三日 高出組・嶋立組・庄内組、二十四日 岡田組・山家組、
一、御改当日は朝八時、寺院・村役人ともに間違いなく罷り出ること、
一、御改当日は、口留番人・両御殿守と庄屋・勤めていない帯刀の者たちは罷り出ることはひかえること、小谷七人の者は、無役のためはとくべつなので、罷り出ること、
一、穢多仲間は、小前別に例のとおり、穢多頭方で調べるように、村役人江へ申し付た、
右のとおり期限を仰せ出されたので、例のとおり諸事にわたって間違いのないようにと申し付けられた、三月十八日 米山富之丞・組田蒸三より、
十九日朝、金井へ継ぐ、
一、粟田御殿役僧の由にて、座頭勧化ニにいたし廻村するので、決して敢施物等をたらないように、村々役人ともに心得るように、もっとも御沙汰には申すこともなく、村役人が罷り出て
(改頁)
申すようにと仰せ聞かされたので、御承知されたい、当番より、
金井へ継ぐ、
一、庄内村十左衛門、印形を持参して明二十日に御町所へ御呼出し、申し遣わす、
一、正麟寺退居願い、またまた御沙汰があり直ちに申し遣わす、
三月二十日 朝雨、曇る、
出勤 同役藤森・丸山・栗林・等々力・三崎
一、田沢山一件について、宮淵村役人と十九か村の惣代は、二十一日に罷り出るようにとの御達し、惣代については、藤森へ申し通す、
三月二十一日 天気、暖、夜雨
御組にて盗難届書、何村と認め、下へ印形をして指し出すように、右はほかに類がないので、以来は庄屋・組頭が印形をして差し出すように、直段方にて申し聞かされたので、御承知されたい、丸山より、
(改頁)
三月二十二日 曇る・朝雨降る
三月二十三日 朝曇る、十時頃より天気
一、加州(加賀国、石川県)様が、中山道を御通行され、塩尻に御泊り、鍛之助はじめ子供が拝見に罷り越したところ、御同勢は二千六百人余と申されたとのこと、御道中人馬御触者百疋・百人とのこと、ことのほか所々より拝見の大勢の人が罷り出た由、
一、桐原分の孫左衛門・茂七、宮淵村の茂蔵、御通用金返上が滞っているので、直ちに申し遣わす、
一、桐原分の正麟寺退去願について、かれこれと申し、とかく願いかねるので、兼候ニ付、法弟(ほうてい、弟子)の者たちを呼び集めて、とくと利害に及ぶように、組頭が旧前へ申し遣わしたところ、法弟を呼び集めて利害に及んだところ、、二十五日迄まで延期願いたいと申し出たので、その旨を同役へ頼み遣し、郷目附へ申し上げるはず、
(改頁)
三月二十四日 快晴、暖い、
一、鎌田村の正福寺の看住願い、御聞届、
一、小林源市郎殿へ桐原分より引越し願い、許される、
一、正麟寺隠居願いをようやく差し出す、
一、去年の地震につき、その日にあたるので、村々思い思いにいたる、
三月二十五日 同じく快晴、暖い、
一、先年助郷拝借願の期限が済んだので、願出を御下について会所があると申し来る、
一、小島村の阿弥陀堂の建て替え願い、御聞き済みについて申し来る、直ちに申し遣わす、
三月二十六日 夜雨、朝曇、小雨降る
鍛之助出勤、
書付をもって申し遣わす、
江戸表において、当十五日年号を嘉永に改元と仰せ出されたので、組下の村々と寺社へ洩れなく申し聞かせること、三月二十六日 郡所より、
一、桐原分の正麟寺の隠居、許可が仰せだされ、直ちに申し遣わす、
(改頁)
三月二十七日 天気
三月二十八日 曇、昼過より雨降る
一、年号改元につき、宗門帳の年号を直すようにと、中沢より通達、上条へ継ぐ、
三月二十九日 天気
(改頁)
四月一日 快晴、暖い
(改頁)
五月一日 曇る
書付をもって申し遣わす、
江戸表より御飛脚が着き、殿様ますます御機嫌よく、当二十日に日光へ御代拝、首尾よく御勤め遊ばされ、恐悦のことである、右の趣を知らされたので、組下の村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、郡所より、四月二十八日
書付をもって申し遣わす
江戸表において左京様が御病気のところ、御養生叶わず、当二十四日に御逝去された、
(改頁)
五月五日
長寿の者があると希望がある者は、宗門方へも申し聞かせるように侯様、前にも申し達せられたが、この旨御通達申し上げる、
九日
御組下の村々の店商の者、名前を取り調べ、書付にて差し出すように、吟味御通達があった、右の御紙面を、私は忘れていて申し訳ないことをした、許してくだされ、
早々に御書き出すよう願い上げる、
十日
書付をもって申し遣わす
長尾組楡村又三郎妻わき・
(改頁)
同人娘かね・同人男子(未の年に出生)、
右の者、この五月一日、村から罷り出たまま行方知れず、調べているが、置
これらの人相の者が村方へ参ったときには留め置いて、右村の庄屋方へ知らせるように、組下の村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、可相返わきの人相と衣類
年齢三十七歳、勢は中勢、顔は丸い方で、少しいも顔、目は常体、髪は毛が厚い、
(改頁)
口は常体、言語は重い体、茶縞地袷、下に浅黄縞単物、無地の帯、紺〓前たれ、
かね人相と衣類
年齢五歳、顔は丸い方、目は常体、口も常体、上に格子縞、肩に鼡縞入古単物、下に茶の大縞地の綿入れ、但し、二枚もの紅付
五月二十日 郡所より
(改頁)
九日
このたび、日光御名代につき、御中間御供の者の名前を伺い置いたが、御承知されたい、但し、名前御沙汰の上は、江戸より下りの者には一分、国よりの者へは一分二朱を渡すと 申し合わせた、
一、新参の郷夫の仕添金については、去年の御請取で決めたとおり、、五両余にて差し出さないように仰せ付けられ、なお申し合せのあいだ、御承知されたい、
十一日
御留主居様帰郷夫、当月二十五日までに残らず目見えが済むように
(改頁)
御沙汰があったので、御通達申し上げる、同日
一、先だって御通知申し上げた、御勘定所からの御沙汰があった店商札の御取り調べを、急いで御差し出されるように、なおまた御沙汰があったので、御承知されるよう申しあげたく、
五月十四日
別紙を御配りについて、来る十六日までに否を仰せ上げられるよう沙汰があり、御承知されたい、
五月二十五日
書付をもって申し遣わす、
野々山佐之右衛門が御役を御免になったので、組下の村々と寺社へ
(改頁)
も洩れの内容に申し聞かせること、おって、この書付を返すこと、郡所より
六月四日
書付をもって申し遣わす、
庄内村嘉兵衛と、定次郎は、御用があるので、五日朝十時に印形を持たせ、村役人がついて召し連れり罷り出ること、その節にこの書付を返す、郡所より、
六月十三日
書付をもって申し遣わす、
江戸表において、田安一位様が、この九日に御逝去されたので、公方様御半
城の御忌服を請させるので、鳴り物は者明十四日迄まで、諸祝儀
(改頁)
と殺生は来る十七日迄まで慎むこと、もっとも普請はかまわない、このことを村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、郡所より、
六月十五日
書付をもって申し遣わす、
江戸表より飛脚が到着、御簾中様がこの十日に薨あそばされたということで、殺生はもちろん、普請・とう津き・鳴物などを御停止(ごちょうじ、やめること)のこと、諸事を穏便にして慎むこと、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、郡所より、
六月二十日
書付をもって申し遣わす、
(改頁)
先だって触れを出した穏便のことについては、普請と鳴物は今日からおこなってもかまわない、諸祝儀と殺生は、追って沙汰に及ぶので、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、郡所より、
(改頁)
過日、中田にニ申しあげた御組について、格別にも他所に出るという趣を仰せ聞かされ、厳しく御達し申す、
種地所へ出るについては、かねて御差し留めがあったが、この節におよび、他所引き合い差し出すまでよいということを御聞きだったが、そのようなことはなく、厳しく差し留めるようにと、直段方より申し聞いたので、御通達申し上げたい、六月十四日 上条覚左衛門・丸山杢右衛門より、
右、十五日に参り、十七日に中沢へ継ぐ、
(改頁)
六月十八日
諸秤(はかり)について、古来より寺隨の彦太郎役人が廻って改めていたが、近年者は私事のように心得ているのか、諸秤を数多く所持している者も、秤を少々出てし見せ、よろしくない秤は穏し置いて、所持していないと申し、申請しない者もいると聞く、前もって触のあったとおりに寺隨方より役人が廻り改があるときには、諸秤を隠さず、残らず出して、検査を受けるようにすること、もっとも紛らわしい秤は取り上げる筈である、この旨守るべきである、
右について、東海道・東山道・北陸道、ならびに丹波・丹後・但馬、都合三十三か国の御料は御代官、私領は地頭より触ること、右の通とおり
(改頁)
先年に触がでたところ、取り上げるべき秤も、寺隨方に渡さない場所もあり、みだりに秤を売買するも、手前にて取り替え、掛目の同じでない秤を遣わす者もいると聞き、不届きである、前々から触のでているとおりに、寺隨方役人が廻ったときに、諸秤を残らず検査を受け、西三十三か国の秤等、三十三か国で通用しないものを取り上げた秤は、寺隨方に渡し、隠された秤は新古に限らず、寺隨方のほかで売
(改頁)
買してはいけない、自分で衡と錘・緒などを取り替えてはいけない、もし諸秤を隠し置いて検査を受けず、みだりに売買し、あるいは自分で衡と錘・緒などを取り替えた者がいれば、きっとお咎めを申し付ける、右のとおり先だって達して触れをだしたとおり、それぞれになおまた触れるように、
書付をもって申し遣わす、
別紙のとおり公儀より御触があったので、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、郡所より、
(改頁)
書付をもって申し遣わす、
御廉中様が薨御につき、停止されていた諸祝儀・殺生は、もはや慎まなくてよいと、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、六月二十八日 郡所より、
書付をもって申し遣わす、
江戸表において、溝口主膳正様の御弟の七郎様が御病気のところ、この二十二日に御逝去になられ、奥様御弟の御続につき、来月十二日まで御忌中なので、来月二日まで諸事慎むこと、普請と家業としている殺生・鳴物は、二十九日よりかまわない、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、
(改頁)
六月廿八日 郡所より、
覚
諸殺生については、猟師が許された者は特別、そのほかの者は殺生してはならないとかねてから仰せ出だされているが、近年、みだりに心得ちがいの者たちがいると聞く、この説、御穏便中は勿論のこと、心得違いの者のないように、きっと申し達すように申し聞かされた、御組々の五か組へ、きびしく心得るように申し聞かされた、右御通達申し上げる、度、六月廿九日
(改頁)
七月八日
殿様が来る十一日に御帰城あさばされる旨、郷御目附より内々にお話があった、もっとも、昨日御配りした書付は御差し出しはないが、御目見には間に合うようにするべく通達を仰せられた、十八日
書付をもって申し遣わす、
その組の真綿、互会所において来る二十五日より同二十九日まで納めるように、組下の村々へ触れること、篠田武右衛門より、
桐原分、右の村御預所の刎銭の上納が滞っているので、来る二十日に役人
(改頁)
印形を持って罷り出て上納し、それより当御支配郷御目付へ届けるように申し聞かされた、御承知されたい、
二十日
一、人足五拾六人・馬五疋 庄内組
一、人足五拾七人・馬五疋 山家組
一、人足五拾七人・馬五疋 岡田組
右は、大坂御加番堀長門守様の御通りにつき、岡田町入用の人
馬なので、来る二十二日朝八時に、右の人馬を岡田町問屋方へ滞りなく差し出すように、もっとも、一組一人ずつ世話役人を差し添えて差し出すこと、
一、馬六疋 庄内組
一、同じく馬七疋 山家組
(改頁)
一、同じく馬七疋 岡田組
右御通りにつき、松本町入用寄馬であるので、差し出すように申し付ける、もっとも一組より一人ずつ世話役人、来る二十二日午後二時に滞りなく差し出すように申し付ける、おって、この書付を返すこと、七月二十日 郡所より、折井伴右衛門・金井源左衛門・藤井佐左衛門、
七月二十四日
御道見分、御塚前の道より山辺御殿まで、下條徳太夫と高橋元治郎は、明二十五日に御道御見分に御出張になるので、例のとおり心得ること、もっとも御塚道までは
(改頁)
よろしいので、それより先々を御見分になるように達しがあった、金井より、藤井佐左衛門様、おって、朝八時には御出になる、
一、御組の夫銭帳が未だ差し出されていないので、早々に御差し出されるようにと、直段方より申し聞かされた、御承知されたい、
一、おって申し上げる、筑摩の神主の林美濃が、養女に山田与右衛門殿が世話をして引き取るという願いを届けた旨の御達がった、、
一、蟻ケ崎の難渋願いがあったが、先だって御沙汰におよび置いたとおり、早々に調査をし、明後二十六日までに御差し出すように、
(改頁)
七月二十七日 天気
野口村・木崎村・中綱村・青木村・館之内村・塩嶋村・中之郷村・押野村・青嶋村・町村・下平瀬村・下村・犬飼新田村・熊倉村・岩岡村・小宮村・等々力村・狐嶋村・渚村・宮淵村・荒井村・堀米村・上波田村、
(改頁)
右の村々、許可された殺生の者、村々の殺生について、これまで御物成帳に、鮭役・屋那役等を指し出したが、右は村方が皆で長年殺生してきたのか、または別人にてしてきたのかを取り調べて申し出るように達す、
一、表御勘定所より殺生札を頂戴し、長年殺生する者は、その人別を取り調べて申し出るように達す、
宮淵あたり、田沢あたりで、いっこうに御冥加などを差し出さずに、長年にわたって渡世し、また水辺で鮭などを子供がとったものを取り集めて売出して渡世する者もあるという、そのようなことがあれば、村々すべて人別を詳しく取り調べて仰せ上げるよう、同役より通達があった、
七月二十五日出、中沢へ継ぐ、
(改頁)
庄内組征矢野村・渚村の組合、川除の目論見帳を七月二十八日に出す、
八月一日、宮淵村、七月二十三日に出す、
定郷夫の久之丞の代りの者を、早急に差し出すように、中部屋で申し聞かされた
ので、御承知されたい、早々に返答する、
庄内組宮淵村の定郷夫久之丞、生所は沢村、二十七歳、七月二十三日出発、
書付をもって申し遣わす、
郡奉行・町奉行・表勘定奉行 兼帯 神尾喜作
右のとおり仰せ付けられたので、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、
(改頁)
おって、この書付は返すこと、郡所より、
書付をもって申し遣わす、
安保権蔵代り表勘定奉行、名越新五右衛門、
右のとおり仰せ付けられたので、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、八月一日 表勘定所より、
八月六日、勅号所
河州(河内国、大阪府東部)志紀郡小山村の無量寿院の諸堂が大破したので、修覆助成のため、
(改頁)
河内・近江・美濃・三河・飛騨・信濃・伊勢・越後の八か国が、ともに勧化御免を仰せつけられたので、この未二月より来る酉二月(嘉永二年)まで、一か国九十日宛、御料・私領・寺社領・在町に巡行されるにつき、天保十四卯年(一八四三)かねて触れのあったとおりに、勧化については相対にすること、
弘化四未年二月 寺社奉行、
浜淡路
(改頁)
勅号所
河州の無量寿院の諸堂が大破につき、修覆助成のため、河内・近江・美濃・三河・飛騨・信濃・伊勢・越後の八か国が、ともに勧化御免を仰せつけられたので、これにより寺社御奉行の脇坂淡路守殿御一人の印怙拝参にて、去る未二月から来る酉二月まで、一か国九十日宛、御領・私領・寺社領・在町まで巡行するので、当御領分
(改頁)
も巡行するから、念のため仕御届け申しあげる、巡行役人より、
八月三日 大井源吾、郷用、町方御役所
諸国寺社修復助成のため、相対勧化巡行の節目には、寺社奉行一判の印状を持参、御料・私領・在町を巡行する、公儀御免の勧化ではないので、相対次第であり、御免勧化より紛れないようにする旨、
(改頁)
御料は御代官、私領は領主・地頭より、かねて申し聞かせ置いた、右のとおり明和三戌年(一七六六)触置いたところ、年月が経って御免勧化はたびたび触れがあった、相対勧化は寺社奉行一判の印状を持参するので、、不審思うかもしれないが、紛らわしい者ではないので、よく心得えること、右のとおり御料は御代官、私領は領主・地頭より、洩れの内容に触れて周知すること、卯六月、右の触れがあった、
(改頁)
いよいよ御安康になるようにお祝い申し上げる、しからば、別紙郷御目付より御渡にて御免勧化ではなく、、相対勧化御免にて、巡行人が罷り越してきたので、みな心得るように、もっとも、二通は右の巡行役人より御役所へ指し出す、同書面の写し鼠半紙書付は、天保年中の御触が廻ったときの写なので、このとおりにみな心得るようにと御達しがあった、
(改頁)
右について巡行もあると思うので、心得るように御通達申し上げたく、早々にこのような次第である、
八月十日
川口段兵衛殿へ火災の節、馳付人足が、放光寺村より参ることになったが、遠方ゆえかとかく延着して差しつかえがあるため、なるべく近くへ申し付けるように仰せ聞かされたので、御通達申し上げるべくとの御沙汰があった、御承知されたい、
三才村の左左衛門と与佐三郎、
(改頁)
右の者は、明十一日に御呼出しになった、御承知されたい、
八月十一日
書付をもって申し遣わす、
屯事、増田万右衛門、右のとおり改名したので、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、八月十日 郡所より、
来る十六日朝七時に、殿様が浅間御殿へ御日帰りにつき、例のとおりそれぞれにお知らせするよう御達し申す、
(改頁)
八月十一日 上原より、五時に即刻金井へ継ぐ、
書付をもって申し遣わす、
蟻ケ崎村の金十郎は、御用があり、来る十三日の朝十時に村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときに、この書付を返すこと、郡所より、
筑摩村の定郷夫、徳八、
一、銀五匁二分、未冬炭弐俵代
一、同二十五匁六分二厘、未頼薪一間四十代
〆て三十匁八分二厘、そのうち五匁八分は申春にくだされた給金、
(改頁)
指し引いて、二十五匁七分四厘、右のとおり上納するよう御達し申す、八月十一日上条、
いよいよ御安康になるようにお祝い申し上げる、しからば、郷御目付にあってないないに話されたことは、先日の放光寺の火災の際、七日に御見分、八日に火元の者を差し入れ仰せつけられた旨を、郷御目付より御書状を参ったところ、近辺の者が申すには、このたび火元はお咎めの御沙汰はないようだと、郷御目付が聞き入れて、そのようなことはないはずだが、万一なにかの間違いがあって、そのようなことを言う者があればよろしくないので、ないないに私どもから心得申し上げるように仰せ聞かされた、
(改頁)
このことを御承知されたい、、八月十七日 中田・藤井 申し遣わす、
書付をもって申し遣わす、
笠井倉蔵代安江名右衛門、大沢門太兵衛代柳野錫五郎、
右のとおり仰せつけられたので、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、八月二十一日 郡所より、
(改頁)
書付をもって申し遣わす、
桐原分の賢忠寺現住哲仙は、御用があるので明二十五日朝十時に、印形を持たせ、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、郡所より、
申し遣わす、
(改頁)
八月二十五日
書付をもって申し遣わす、
庄内村の折井庄左衛門は、御用があるので明二十六日朝十時に、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、郡所より、
八月二十九日
書付をもって申し遣わす、
筑摩村の初太郎こと久兵衛は、御用があるので来る三日朝十時に、印形を持たせ、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、郡所より
(改頁)
書付をもって申し遣わす、
花見(けみ)村の川越小兵衛、高家(たきべ)村の寅松・同人倅助右衛門・真光寺、大久保村の金松寺、中村の牧右衛門・七郎右衛門・伊兵衛・与惣次、上堀金(かみほりがね)村の藤十、大久保村の代蔵、
(改頁)
中村の和藤次・伊左衛門・与五郎・音松、小室(おむろ)村の彦三郎、焼山(やけやま)村の若林作左衛門・梅太郎、花見村の喜兵次・源太郎、大野田村の儀十、杏(からもも)村の藤左衛門、丸田村の七蔵、三之宮村の勤蔵、このうち惣代両三人、
(改頁)
田屋村の岑三郎・喜右衛門、中村の仁左衛門・甚五右衛門・伴次郎、花見村の太郎右衛門、大久保村の倉次郎、丸田村の重蔵、白板村の宗四郎、南新(みなみにい)村の勘之丞、荒井村の組頭与次郎・右のうち惣代一両人、
右の者たちに御用があるので、来る五日朝十時に、
(改頁)
村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、郡所より、
一、昨日会合した御通用について申し立てるのは、いままでと同様、見込どおりに御貸に加えられてもよろしい、しかしながら万一滞っても、これまでどおりに、御取りかえの御沙汰があってもそのようにはせず、御断り申し上げるように、
(改頁)
一、昨日会合した御通用について申し立てるのは、いままでと同様、見込どおりに御貸に加えられてもよろしい、しかしながら万一滞っても、これまでどおりに、御取りかえの御沙汰があってもそのようにはせず、御断り申し上げ置く見込みのとおり、念入倹儀書き上げ申しても、取り替え等についてはけしてしないように、これまでどおりにするように申し上げる、かつ、御家中より内々に御呼び入れがあっても、その旨を内々に申し上げ、たとえ見込み指し上げても、御貸附のないように申し立て置く、右のとおり御通達申
し上げる、九月四日夜 上条・栗林、
五日に中田へ廻し申す、
藤森公よりの御筆が読めなくて、読み違いがあるか心配なので御察しくだされたい、
書付をもって申し遣わす、
河原和太夫・大決門太兵衛・後藤前之助、右代り新井水弥太・伊藤友七郎、
右仰せつけられたので、組下村々と寺社へも洩れなく知らせること、九月五日、篠田武右衛門が申し遣す、
九月八日
折井庄左衛門は、明後十日に御郡所へ御呼出し、
池上弥次兵衛は、来る十一日に御町所へ御用があり、右両様御承知されたい、
(改頁)
書付をもって申し遣わす、
川除方の後藤善之助・市川助一郎、直段方の沢柳金平、
右のとおり仰せつけられたので、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、九月五日 郡所より申し遣わす、八月十日、
三才村の庄左衛門・与三次郎は、明十一日に御呼出し、御承知されたい、当番より、
九月十一日
折々の雨天、当年殿様が鮭猟に御越しあそばれるので、鮭役のある組々にて、先年に右の場
(改頁)
野に行くことがあるか、あれば、その来歴ともに互に申し出るように御達し、鮭取りが初ま
なお盛んに登る時期に、およその場所を申し出るよう御承知されたい、
藤森の書状、わからない、
書付をもって申し遣わす、
桐原分の斗次郎は、御用があるので明十六日朝十時に、印形を持たせ、村役人とともに召し連れ罷り出ること、九月十五日 篠田武太衛門、
一、御部屋、以前のとおりになったので、川除の諸普請は、
(改頁)
以前に御引き戻し、御目論見帳は川除方より差し出され、、御普請出役は御部屋より差し出され、村請普請についても願出れば、これまた以前のとおりにするように、池田部屋にて申し聞かされたので、御承知されたい、
書付をもって申し遣わす、
鉄炮猟について、御免札を所持していても、その組にかぎっての殺生は格別、そのほかの者たちの殺生者は、
(改頁)
前々から厳しく禁止されているが、御免札を所持する者たちが、ほかの組までも立ち入り、あるいは、猪や鹿を威すにことよせて、隠鉄炮を拵え置いて殺生をしていると聞く、不埒至極のことなので、心得違いのないようにたびた申し達してきたが、なおまた、隠筒者はもちろん、いろいろな殺生が近来とくに勝手気ままになったと聞くので、もってのほか、不埒なことであるから、村々役人ともども仰せ出された趣旨をきちんと心得ず、なおざりにされていることは不調法である、
(改頁)
これからは、きっと差し示し、それでもそのようなものがいれば、早々に訴えでること、なお、見廻りの者を御召し出し、いつでも改め、隠鉄炮御免札のない者が、殺生道具を所持していたならば、ニおゐてハ、当人はもちろん役人どもまで、かならずお咎め仰せつけるように、右のことを精々申し聞かせ置くこと、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、
(改頁)
申九月十三日 郡所より
書付をもって申し遣わす、
庄内組宮淵村の、ふ里こと、ふミは、二十九日朝に村を出て行方知らずになったと訴え出たので、左の人相の人物が村方へ参ったら、留め置いて、右村の庄屋方まで知らせてほしい、組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと致返
ふミの人相と衣類
(改頁)
年齢は四十一歳、中肉中背、顔は丸い方、目は少しシ大きい方、髪の毛は厚い方、話し方は静かな方、行方不明になったときの衣類は紺竪縞紫糸入の袷を着て、下に毛岡染の繻伴を着ている、無地で古い染の帯を締めている、
申九月十八日 郡所より、
筑摩村の久兵衛は、明後二十三日に御呼出し、
(改頁)
九月二十九日
神尾喜作殿・増田為右衛門殿・喜多村熊太夫殿・組田蒸三殿・岩井浦右衛門殿が、明後一日に、六九(ろっく、松本城下の町)を通り、保高組へ御出張になる、もっとも被成候、時刻については正六時に御出立すると、郷御目附より仰せきかされたので、申し上げたい、
藤森に継ぐ、
(改頁)
三才村の庄左衛門は、御用があるので、明後十三日朝、村役人が召し連れ、郷御目附に罷り出るように御達があった、ご承知されたい、十月十一日 金井源左衛門、これは、御状で申し遣わす、
小島村の源市郎、桐原分の太左衛門は、十月十二日に右の村の長百姓(おさびゃくしょう)役を申し付ける、十三日に御代官所へ申し上る、
一来る十九日に御収納方を御差し出し、八日に寄納、引き続き村々に納を仰せ付けられた、当年
(改頁)
は、雨天が続き、籾干しがよくなくて、十九日迄までには間もあるので、念を入れるように御達があった、御承知されたい、十月十二日 金井より、
一、ながいあいだお尋ねの者、あるいは欠落して呼び戻された者、その後、知らせがあった者がいるかどうか、そのとき御届けするようにと、郷御目附より仰せ聞かされた、組下へ、欠落で呼び戻ったり、欠落したときは、早々に申し出るように候様、
申し達す、十月十一日 清水より、
右、上条が十三日朝に申し遣わす、
書付をもって申し遣わす、
十月十三日 戸〆
白板村分の今町庄蔵・
(改頁)
仲七、庄内村分の巾上(はばうえ)助之丞、ほか病気の者は快気を申し出るように役人へ申し達す、
宮淵村の伴助、蟻ケ崎村の三右衛門は、御用があるので明後十三日朝十時に、
印形を持たせ、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときに、この書付を返すこと、申十月十一日 郡所より、
小島村の源一郎、桐原分の太左衛門、
(改頁)
右の者どもに、十月十二日に右の村々の長百姓役を申し付け、十三日に御代官所へ申し上る
書付をもって申し遣わす、
郡奉行暮沼五右衛門、町奉行・表勘定所奉行兼帯
右のとおり仰せつけられたので、このことを組下村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、おって、この書付は返すこと、十一月一日 郡所より、
書付をもって申し遣わす、
蟻ヶ畸村の森之丞・太津蔵・十三郎・伊右衛門・源之丞・亀太郎
(改頁)
・安太郎・七十蔵・熊蔵・由太郎・犀十郎・半次郎・金太郎、白板村の忠太郎・嘉蔵・林太郎・喜代次郎、宮淵村の類吉・覚左衛門・布吉・熊次郎・安蔵、庄内村分巾上の松蔵・太蔵・
(改頁)
渚村の峯吉・善太郎・喜代太郎、桐原分沢村の喜久次郎・吉左衛門・久野三郎、白板村
今町の善助、
右の者たちは、御用があるので明五日朝十時に、印形を持たせ、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、申十一月四日、郡所より、
(改頁)
書付をもって申し遣わす、
桐原分の八右衛門は、御用があるので来る朝十時に、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、申十一月八日、郡所より申し遣わす、
し候
書付をもって申し遣わす、
金十両について、二十九俵が金納、籾三十俵が買納、右のとおり、今年の冬の御立直段が仰せ出されたので、このことを組下の村々へ知らせること、申十一月一日、篠田武太衛門より、
組下へ触れる、
(改頁)
十一月九日
「上州」と唱える籾、「上州古ふれ」と唱える籾、右は、籾をただしく示したいので、この籾の手本籾を差し出すように、「上州古ふれ」と唱えるものは、庄内より出ているが、ほかからは出ていないのでほかの組の者は、手本籾を差し出すように、「上州志らは」と唱えるがでてきても、右の籾ではなく「上州」と唱える籾であるから、せいぜい申し聞くこと、籾の正しいものがあれば、その手本籾を差し出すようにと、御部屋より申し聞かされたので、早々に申し上げたい、十一月八日、金井源左衛門より、
八日に参り、藤井より参る、上条が十日朝に継ぐ、
一、御通用所より仰せ聞かされた、被仰聞候、御内御用御相談申したく、ついては郡中割りをしたいと申し参り、鍛之助を差し出す、金井・栗林・藤森、
(改頁)
書付をもって申し遣わす、
久世大和守様御養方の御叔父である栄五郎様が御病気のところ、、御養生叶わず、この五日御逝去あそばされた、これにより、殿様は来る十四日まで、大奥様は同二十四日まで御忌中なるので、諸事慎むことなく御家業いたし、諸殺生・鳴物も今日から苦しからず、かつm¥、火の用心は別に念入りに申し付ける、このことを組下の村々と寺社へも洩れなく申し聞かせること、十二月十一日 郡所より、
十一日夜六時に触れる、十二日の朝に廻状がもどる、
一、御奉行方が、明後十三日に野村に御出役するので、朝八時に組頭が御役所に達す、内へは八時に書状を達す、
一、今町の庄屋、明後十三日に御呼出し、直ちに達す、
(改頁)
桐原分の正麟寺長老哲元(ゲン)と庄屋・組頭は御町所に御用があるので、明日十四日朝十時に印形を持参して罷り出るよに御達し申す、
十三日
一、賢忠寺の隠居願いが許された、かつ、閑住願いも許された、直ちに達す、
十一月十四日
一、桐原分の庄屋の庄七郎が参って申し聞かせたことに、今日、直段方にて役人が罷り出て申すには、正麟寺後住一件と思われた、しかるに、夕方組頭の四右衛門が参り、直段方御用について申し聞かせるに、正麟寺後住については、法教を継ぐと申す者もあり、他法で継ぎたいと申す者もあり、右について申し出たが、役人場において、とくと穿鑿した、いずれの場であるか、そのことを申し出るよう達する趣をし聞いた、
(改頁)
一、蟻ヶ崎用水、北御門ほか三軒屋敷前の御堀揚口跡、そのままにしておかれているが、早々に取り繕うよう御達につき申し達したところ、十四日に源十郎が参って申すに、冬に水掛けしたいので、修繕せずに差し置くようにと申し聞かされたが、そのような例はこれまでもなかったので、早急に修繕して元どおりにするように、なおまた申し達す、
神尾喜作様と増田万右衛門様は、明十五日朝、野村より御引き取りになるので、御道筋では例のとおりにするように御承知されたい、、十一月十七日 中田源二郎より、
直ちに庄内小島へ達す
白板村分今町の仲七、宮淵村の伴助は、明十五日に例のとおりに御呼出し、御承知されたい、藤森、差し出し、
(改頁)
一、御塚道の四九六間のうち、掃除をする日取の願いを差し出したところ、御加筆があったので、直ちに遣す、
一、助郷金について、明十五日に掛り村役人、一両人を召し連れて罷り出る相談をしたいと、金井より申し参る、庄内筑摩に罷り出るように申し遣わす、
一位小島村留、九郎が明日御町所へ村役人が召し連れ罷り出るように申し参る、申し遣わす、
十一月十五日
十一月十六日 鍛之助出勤、
白板村今町の忠左衛門後家まつ、同町仁左衛門後家はな、右の村役人は、明後十八日朝十時に印形を持参して罷り出るように御達申しあげる、
(改頁)
申し達わす
一、御塚の御道の掃除、埋橋村にて冥加を致させたいという願いを御聞き届け、これについて御手当のため、年々籾三俵ずつ下されそうろうと御達になり、申し遣わす、
十一月十七日
十一月十八日
十一月十九日
一、我ら病後はじめて今日出勤、
同役 金井・藤井・上条・西沢・中沢・中田・山崎・小丸山・清水・小等々力・小藤森、
一、桐原分岡右衛門の難渋願い、御部屋へ、上候、
一、献金を来る晦日に差し出すように、小藤森より通達あり、上条へ遣わす、
一、願割りは、十八日に済み、熊倉橋の西詰一橋が欠折れたので見分、北組同役、帰りの節
(改頁)
奥様が御胎身につき赦を仰せ出される趣、直段方より申し聞かされ、組下へ申し達す、もっとも、二十三日まで有無を申し出るように申し遣わす、
一、助郷割五分八御救い願い、
(改頁)
直段方、たびたび御沙汰があり許されたが、お咎めの者を御取り調べについては、なおまた今日御沙汰があり、明後二十六日まで間違いなく申し出るように申し聞かされた、候、もっとも、御〓儀のところはどうなったのか計りがたいが、さきに御取り調べがなければいけないので、御取り調べができる出来組でも、明日少しも御差し出されるように、明日仰せ上げられたい、右申し上げたい、金井源左衛門より、
二十四日夜二時に参り、二十五日の朝八時に上条へ継ぐ、
書付をもって申し遣わす、
白板村の安兵衛・白板村分今町の忠左衛門後家まつ・仁左衛門後家はな・白板村の村役人は、御用があるので明後日二十六日の朝十時に、印形を持参し、村役人とともに召し連れ罷り出ること、申十月二十四日 郡所より、
(改頁)
蟻ケ崎村の熊蔵・白板村の喜代次郎・宮淵村の類吉・桐原分の久野三郎は、印形を持参し、明後二十六日に御呼び出しなので、村役人も印形を持参するように仰せ聞かされた、
庄内村の重左衛門は、印形を持参、明後二十六日に御町所に御呼び出し、村役人も印形持参を心掛けるように仰せ聞かされた右申し上げたく、十一月二十四日 金井源左衛門より、
一、赦につき御咎人を取り調べ、組方よりいないと申し出る、中林村の米吉こと惣三郎は、当月に御廻役を仰せ付けられたので、申し上げる、
(改頁)
十一月二十八日
一、御廻米四百三住四俵、このうち六住俵が正米、三百七住四俵が金納、
一、御廻米千六百七十俵 嶋立組、このうち百九十一俵が正米、千百七十九俵が金納、
右のとおり割合するので御承知ありたい、二十八日 中沢より、
二十九日朝に上条へ継ぐ、
十一月晦日
一、御廻米御改之について、来月五日に御改め、同六日附になっても差し支えないか、御尋ねがあったので申し上げる、このことについてご承知されたい、有之候間此之段申
(改頁)
一、この間に調書を差し出したが、御咎め人について、この節に本当に取り直して御救免してもよいか、または今もって取り直さずに御免されてはいけないのかを、一両日中に差し出すように、かえすがえすも早急に差し出すように、仰せ聞かされたので、御承知ありたい、十一月二十九日 金井佐源太より、
晦日の朝、中田より参り、上条に直ちに継ぐ、
御形手願いの覚え
一、籾六百九十八俵三斗八升八合
御手形願いの覚え
一、籾六百九十八俵三斗八升八合 高出組
このうち、三百八十六俵は増沢次左衛門入り、百五十二俵は平林要右衛門入り、百六十一俵は中藤茂五右衛門、
一、籾七百八十一俵 嶋立組
このうち、三百八十六俵は中村弥左衛門入り、
(改頁)
百三十四俵は平林要右衛門入り、百六十一俵は中藤茂久右衛門入り、
一、籾四百五俵 山家組、小松清兵衛入り、
一、籾三百八十俵 岡田組、二木豊四郎入り、
一、籾四百五十二俵 庄内組
このうち、三百八十六俵は折井庄左衛門入り、六十六俵は中藤茂久右衛門入り、
〆て弐二千七百十六俵三斗八升八合、
右のとおり囲穀御手形を願い上げる、
御蔵掛 高出組七郎左衛門、嶋立組腰六右衛門、山家組三重三郎、岡田組
(改頁)
赤羽忠九郎、庄内組百瀬庄次郎、
折井伴右衛門殿・金井源左衛門殿・藤井佐左衛門殿・上条覚左衛門殿・中田源次郎殿、
別紙、囲穀世話役より認め出で申し、例のとおり御用があるので来る朝十時に、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、申十一月八日、郡所より申し遣わす、
(改頁)
十二月三日
宮淵村・白板村・筑摩村・桐原分、右の村々、御領所刎銭上納は、来る五日に村役場へ取り立て、間違いなく上納させるように御達につき、申し達す、
一、囲穀詰替願い、明日差し出すように申し出で、御部屋にて申し聞かされた、上条長之助より、
一、二両 庄内組、
右は献金出不足につき、人別・名前を急いで仰せ上げるよう、郷御目附より仰せ聞かされた、もっともほかの組にもあり、御書付会所に取り置き申す、右附紙をして差し出すようにこれまた仰せ聞かされたので、御承知されたい、中沢孫右衛門より、
十二月四日
尊公様が、明日御目附に御出勤、御自身が出られると仰せ聞かされた、おって、明日に上田へ御越しにつき、尊公様が御出頭になられ、これまた御承知されたい、
(改頁)
金井佐源太より、
白板村の忠太郎・嘉蔵・林三郎、渚村の峯松・善太郎、蟻ケ崎村の由太郎・犀十郎は、明五日に御呼出を仰せ出されたので、例のとおり御承知されたい、金井佐源太より、
東五か村の助郷差村につき金子一件
一、千五十二両五匁のうち、五百四十四両は通用所より御取賄いがあり、十一月と十二月の二か月分の利は九両、昨年の御礼金のうちへ御加えて、つごう、千六十一両五匁になる、
(改頁)
十二月六日
書付をもって申し遣わす、
大町村にある御紺麻の入札を仰せつけられたので、希望の者は入札を認め、来る八日朝十時に当役所に持参すること、、員数については大町村の麻問屋へ承合申すべし、このことを組下の村々に申し聞かせること、希望がない組でも、当日に断ること、郡所より、
一、皮類の御詮議について、もはや狐の皮ばかりになったので、なるたけ精を出すように、猟師の者たちに申し達す旨、御達し下されるように、右御達し、上条へ継ぐ、
十二月七日
十二月八日
庄内村晒屋の八百蔵・新吉倅八十吉・徳次郎・徳蔵・孫十は、御用があるので、明九日
朝十時に印形を持たせ、村役人が召し連れて罷り出ること、郡所より、
(改頁)
宮淵村の覚左衛門と亀十は、明九日に御呼出しがあり、例のとおり御承知されたい、十二月八日 上条長之助より、
右両様、直ちに申し遣わす、
一、助郷金について御相談申し上げたいので、明後九日に御出勤になられるよう、十二月八日 金井源左衛門より、
右、中田へ、夜八時に継ぐ、
(改頁)
十二月十六日
来春に御目見えの人別で病気の者、来る二十日までに仰せあげるように申し聞かされた、右御承知されたい、十二月十五日 金井源左衛門より、
書付をもって申し遣わす、
蟻ケ崎村の組頭七郎兵衛・三才村の組頭新左衛門・中林村と桐原分の庄屋
と組頭、右の者ども、御用があるので、来る二十日朝十に召し連れ、罷り出ること、十二月十五日 篠田武太衛門より、
一、在方の大工とも、作料請方についてはさまざまであるが、材木ともに請負している者がいると聞く、よろしくないので、御極印の木品、山師ともに買い請けても、これでは、木品の商い
(改頁)
之の筋にあたるので、このような稼ぎ方をしている者は、商札を請けて稼方をするようにと、御吟味役よ仰せ聞かされた、右のとおり通達申し上げたい、十二月十日 上条覚左衛門・等々力伝右衛門より、
右、十五日の夜、中田より参り、六日朝、中沢へ継ぐ、
書付をもって申し遣わす、
白板村の嘉蔵・忠久郎・久七・了次郎、桐原分の仁右衛門・千代太郎、小嶋村の兼次郎、征矢野村の文吉、渚村の喜代三郎、埋橋村の米吉、筑摩村の三之〓、庄内分の相之助、
(改頁)
桐原分の組頭・職世話・市蔵・滝蔵・弥五右衛門・八百之助、庄屋折井庄左衛門、
右の者ども、御用があるので、来る二十二日朝十時に、村役人と召し連れ罷り出ること、十二月十八日 郡所より、
書付をもって申し遣わす、
蟻ケ崎村の半蔵は、御用があるので、明後二十三日朝十時に、村役人と召し連れ罷り出ること、十二月二十一日 郡所より、