[解説]

書留帳(延徳田んぼを漂流した話)
山田家資料館 寺島正友

 この「延徳田んぼを漂流した話」が記されている『書留帳』は、古い書付をもとに、寛政九年(一七九七)に新たに書きまとめたものである。現在は高井鴻山記念館に寄託されている。
 牛島の者達が漂流して一周した、押切から小沼、大熊、桜沢にかけての地域は、延徳沖と呼ばれる水害常襲地域である。
 延徳沖は、千曲川の自然堤防の背後にある氾濫原(後背湿地)であり、中野(夜間瀬川)扇状地と小布施松川)扇状地との中間に挟まれた面積約千ヘクタールの水田地帯である。この氾濫原は最低の標高が三二九メートルで、長野盆地で最も低い地点となっている。
 延徳沖の西側を流れる千曲川へは、犀川をはじめとする長野盆地の水が大量に集まってくる。そして、ひとたび上流地域に降雨が続くとにわかに水量を増し、立ヶ花狭窄部へ集中するのである。
 ところが、立ヶ花狭窄部のすぐ東に広がる延徳沖は低平な地である。そのため、いったん増水した千曲川の流水が篠井川を逆流すると、延徳沖一帯は水没した。江戸時代、延徳沖には水害防止のための大堤防がなかった。そのため、川西の長沼等が主張する通り、延徳沖千曲川水害を最小限にくい止めるための、遊水池の役目を果たしていた。
 そんな延徳沖周辺の村々は、戌の満水で大被害にあうことになった。その様子は、この「延徳田んぼを漂流した話」の続きに書き写されている「寛保三年亥二月、江戸表ニテ高井郡廿三ヶ村飢人夫食御拝借御直訴願書」によって、詳細を伺い知ることができる。幕府へ直訴した二十三か村は、現在の小布施町の山王島、飯田、小布施押切北岡、羽場、清水、矢島、六川、福原新田、松村新田、中条の十二か村と、中野市の草間、安源寺、安源寺新田、片塩、西江部、東江部、新保、小沼、篠井、桜沢、大熊の十一か村である。
 直訴願書によると、「二十三か村は以前より水害の多い場所であったが、特に近年は連続して水害に合い困り苦しんでいた。寛保二年には、五月に千曲川満水があり麦作がすべて泥腐りしてしまった。食糧が無くなり、内々に食糧を借りて凌いでいた。そこへ八月一日に大満水があり、家は潰れ流れ、人馬も流れ死んだ。残った者たちは、家の棟を切り破り、筏に立ったまま乗って逃げ、命だけは助かる」という被害状況であった。
 この時、最も被害を受けたのは、延徳沖の中ほどに位置する小沼であった。史料「高井郡之内松代領水難」によれば、溺死者は十八人(男三人、女十五人)で、被害を受けた家は二十七軒(流れ家二十軒、潰れ家七軒)であった。
 大被害を受けた村々は、さっそく中野代官所へ報告して見分をうけた。同時に、「埋まっていた食料を掘り出したが、すでに腐っており捨てなければならない」状態であった。
 そのころから、中野代官所は二度に分けて、六十日分の食糧を貸し与えた。その外にも、水害に合わなかった村の親類や親しい人に助けられたが、少ししか貯えのない者は餓死した。
 このような「何年にもない大変」に対応するため、被害のあった八月早々に、中野村組頭の金八を郡中惣代として、御勘定所へ見分を願い出ている。その結果、十二月下旬、坂木代官所大草太郎左衛門一行が見分に来た。
 ところが、千曲川の御普請場(堤防)の、どこを直せばよいか――と災害現場ばかり見ていて、「弐拾三ヶ村壱万石余程水損亡」の実情や「深泥石砂入田畑」になり復興も難しい「百姓難儀」を見てくれなかったのである。
 そこで、寛保三年正月十一日、二十三か村代表が直訴願書を持って江戸へ出発した。幕府の勘定所へ直接、願い出に行ったのである。
 二十三か村は、嘆願書の中で「信州は雪国で百姓の冬仕事は何もない。わら仕事は、大事な冬かせぎなのに、そのわらもない。村々の百姓は餓死しそうだ」、「潰れ家になった百姓は小屋をかけることもできない。当分は野宿同然で凍え飢えている。家がなければ耕作することもできないので、小屋がけ代金を貸してほしい」、「麦作ができるまで、正月から五月までの五か月分の食糧を貸し与えてほしい」などと訴えている。
 一行は滞在途中で旅費が足りなくなり、押切小布施、六川、東江部、草間の五か村の名主を残して、十八か村の名主は村へ帰ったが、その身なりは乞食のようだったという。
 江戸に残っていた五人は、二月九日に代官所へ呼び出され、さらに一か月分の食糧を貸し与える内示を受けた。しかし、それでは五月までの食糧には足りず、再び二月二十一日に代官所へ呼びだされて吟味を受けることになった。