[現代訳]

 長い年月の俳風の変化も、元禄時代に至って正しい(みやび)が次第に定まって以来、諸氏の趣は、それぞれがその得手不得手によって、姿形はそれぞれであっても、芭蕉翁の言う「向上の一路」は踏み違えることなく、ヒバリのように巧みにさえずるのも、ミミズのように鈍く怪しげなのも、あるいはヨモギのようにしっかりしているのも、イバラのようにくねっているのも、みな自然の風格を備えていて、しかも正しい(みやび)に背くことがないのは、天の不思議と言うべきだ。その不思議を得た信濃の一茶は、生涯の文芸の道と言行が共に洒脱で、閻魔大王も大口を開けて笑い、地獄の鬼たちも腹を抱えて笑うだろう。そうではあるが、例の向上の本意をを少しも失っておらず、本当に近頃では稀な優れた俳道人と言おうか。この度同国(信濃)の白井一之が、家に伝わった一茶坊の遺稿をそのまま板行して、追慕の志を尽くした。私もまた昔の友人を忘れておらず、一茶坊の亡くなった年、柏原の郷里を訪ねて昔話をすると、ある者は泣き、ある者は笑って別れた。その面影が幻として見えて、このようにこの句文集の序文を書くことになったのも、これまた何かの因縁によるに違いない。
 
 
 昔、丹後の国(京都府)の普甲寺という所に、深く極楽往生を願う上人がいた。年の初めは世間が祝い事をして騒がしいので、自分もしようと、大晦日の夜、一人使っている小法師に手紙をしたためて渡し、明日の朝にこれこれをしろと、しっかり言い教えて、本堂へ泊まりにやった。小法師は元日の朝、まだ辺りが薄暗い時分に、元日の早朝に鳴くカラスの声と同時にがばっと起きて、教えられた通り表門をトントンと叩いて、中から上人が「どちらから」と尋ねた時、「西方極楽浄土の阿弥陀様からの、年始の使いの僧でございます」と答えるより早く、上人は裸足(はだし)で飛び出して、門の扉を左右へさっと開けて、小法師を上座に据えて、昨日の手紙を取って恭しく押し頂いて、読んで言うことに、「人間世界はたくさんの苦しみが充満していますので、早く我が極楽浄土においでなさい。聖者たちが出迎えをして待っています」と読み終えて、おおおおと泣いたとかいうことだ。この上人は、自ら巧みにこしらえた悲しみに自ら嘆き、初春の衣をぬらして、したたる涙を見て祝うとは、乱心した様子ではあるが、僧は俗人に対し無常を説くのを決まりとすると聞いているので、仏門においては、祝いの最上であるに違いない。それとは少々変わって、私たちは俗世間の塵にまみれて生きる境遇にもかかわらず、鶴亀になぞらえたような祝いの数々も、厄払いの口上めいてわざとらしく思うので、私のからっ風が吹けば飛ぶようなあばら屋は、あばら屋のあるべきままに、門松を立てず大掃除をせず、雪の山道のように曲ったまま、今年の春も阿弥陀様任せにして迎えたのであった。
 
 
 妙専寺の小法師鷹丸といって、今年11歳になる子が、3月7日の空がうららかにかすんでいるのに心引かれて、観了という、太くたくましい荒法師を連れて、荒井坂という所に出向いて、セリ・ナズナなどを摘んで遊んでいたちょうどその時、飯綱山から流れ下ってきた雪解け水が、黒煙を立てて、どうどうと鳴りわたって押し寄せて来たが、どうしたのだろうか、橋を踏み外してざぶりと落ちた。「やあ観了、頼む頼む」と呼んで、ここに頭が出たと見ると、あそこに手を出して、たちまちその声も蚊のなくように遠ざかって見えたのをこの世の名残として、いたましいことに、逆巻く波に巻き込まれて、影も形も見えなくなった。ああっと驚いた村の人々が集まってきて、松明(たいまつ)を掲げてあちこちを捜したところ、一里ばかり川下の岩にはさまっていたので、取り上げてさまざまに介抱したが、むなしい袂(たもと)からフキノトウが3つ4つこぼれ出たのを見るにつけても、いつものようにいそいそと帰って、家族への土産にしようと取ったものであろうと推し量られて、鬼を押し潰すような勇猛な山で働く人々も皆袖を絞るように涙を流した。すぐに駕籠(かご)に乗せて、午後8時過ぎ頃に寺に担ぎ込んだ。父母は今や遅しと駆け寄って、一目見るなり、おいおいと人目も恥じず大声で泣き転がった。日頃人に無常を説き勧める境遇も、その立場になっては、さすがに親子の愛情の絆によって、結び目がほどけないように、心がふさぎ込んでしまったのは当然であった。朝には笑い騒いで出かけたのに、夕には物言わぬ屍(しかばね)となって戻る。まさに目も当てられない有様であった。さて9日は野辺送りだったので、私も棺のお供に加わった。
 
 長い月日、雪の下に隠れていたフキやタンポポの類が、ようやく春風が吹く時が来て、雪の間々からうれしそうに首を伸ばして、この世の明かりを見るや否や、ぽきりと摘み取られる草の身になってみれば、鷹丸法師の親のように悲しまないはずがあろうか。草木や国土のような心の無いものも、ことごとく成仏できるという。彼らも仏となる本性を持っているのだろう。
 
 
 正月元日の夜の午前2時頃から始まって、引き続き8日目ごとに天から音楽が聞こえるということを、誰が言うともなく言い触らしていて、いついつの夜、どこそこではっきりと聞いたという人もいる。また、根拠のない噂だとけなす人もいる。その噂は、東西南北にぱっと広がった。よくよく考えてみると、完全にあるとは信じがたく、また全然ないとも片付けがたい。天地不思議の起こす現象によって、その昔天が甘を降らせたり、乙女が天下って舞ったという例もないわけではない。今この天下泰平に感動して、天上の人も腹鼓を打ち、歌舞して楽しんでいるのだろう。それを聞くことができないのは、その身の罪の程度によるのだろう。
 何はともあれ、悪くない噂だということで、3月19日の夕刻過ぎから、誰かれとなく私の庵に集まってきて、それぞれ息を凝らして、今か今かと待っているうちに、夜は白々と明けて、窓の外の梅の木から一声鶯の声が聞こえた。
 
 
 今年は陸奥(みちのく)の方へ行脚しようと、頭陀袋(ずだぶくろ)を首に掛けて、小風呂敷を背負うと、影法師はあたかも西行のように見えて立派だが、心は雪と墨染の袖のようにまったく正反対だと思うにつけて、何となく恥ずかしかったが、今さら装いを変えるのも難しいので、4月16日という日に、久しく寝なれた庵を後にして、2・3里も歩いた頃、細い杖を突き突きよくよく考えたことには、私はすでに六十の坂を登りつめたので、一生の月が西山に傾いているような命で、また生き長らえて帰れるか分からない、白川の関をはるばる越える身なので、「みちのくの十府(とふ)の菅菰(すがごも)」の十ではないが、十に一つもおぼつかないと心配し続けていると、実に心細くて、家々の鶏が時を告げる声も、取って返せと言うように聞こえ、畑の麦に風がそよそよと吹くのも、誰かが招いているかのように思えて、行く道もそれほど進まないので、とある木陰で休んで、痩せた脛(すね)をさすりながら眺めていると、柏原はあの山の外、雲のかかった下あたりなどと推し量られて、何となく名残惜しいので、
 
 
 私の友人の魚淵(なぶち)という人の所に、世間に並ぶもののない牡丹が咲いたということで、言い伝え聞き伝えて、その近辺はもちろん、よその国の人も、足を痛めてわざわざ見に来る人が、毎日多かった。私も今日通りがかりに立ち寄ったところ、五間(けん)ばかりの長さに花園を設け、雨を覆う蔀(しとみ)などが現代風でりりしく、白・紅(くれない)・紫の花が隙間もなく咲き揃っていた。その中で黒と黄色のものは、言われていた通り、目を見張るほど素晴らしく神々しいが、心を落ち着かせて再び花の有様を思うと、ばさばさとして何となくみすぼらしく、他の花に比べると、今が盛りのたおやかな女性のそばに、むなしい屍を飾り立てて、並べて置いてあるかのようで、まったく色つやがない。これはその主人のいたずらで、紙で作って、葉陰にくくりつけて、人をたぶらかしているのであった。しかし、観覧料をむさぼり取るためでもないので、ただ日々の群集に酒や茶を費やして楽しむ主人の心が想像されて、やたらにおもしろい。
 
 
 この辺りの子供の遊びで、を生きたまま土に埋めて、歌って言うことに、「ひきどのがお亡くなりになった。オオバコをもって弔いに、弔いに、弔いに」と口々にはやし立てて、オオバコの葉をその埋めた上にかぶせて帰ってしまう。ところで中国の『本草綱目』では、車前草(オオバコ)の異名を蝦蟇衣(かぼい)としている。わが国では俗に、葉(がいろっぱ)という。自然と和と漢で心を同じくしていると言えよう。昔はこの程度の戯れ言葉にさえ、いわれがあったのだろうか。
 
 このもの(カエル)は、中国の仙人に飛行自在の術を教え、わが国の天王寺では大合戦をして、たいそうな武勇の誉れを残した。それは遠い昔のことで、今はこの安定した時代に応じて、一緒におとなしくなっているので、夏の夕暮れに裏口にむしろを広げて、「福よ福よ」と呼ぶと、すぐに隅の藪からのそのそと這い寄ってきて、人と同じように涼む。その一癖ある顔つきは、一句言いたそうな様子である。そうしたことから、長嘯子(ちょうしょうし)の虫合わせで歌の判者に選ばれたのは、おまえの生涯の誉れに違いない。
 
 
 信濃の国の須坂という所に、中村誰々という医師がいた。その父はたわむれに、蛇が交尾しているのを打ち殺したのだが、その夜、陰部の物がずきずきと痛み出して、ついに腐って、ころりと落ちて死んだとかいうことだ。その子は親の仕事を継いで、三哲といった。普通より優れて、太くたくましい松茸のようなものを持っていた。ところが、を迎えて初めて交わろうという時、棒を立てたようなものは、すぐにめそめそと小さくなり、灯心と同じようにふわふわとして、今はさっぱり役に立たないものだから、恥ずかしく、もどかしく、いまいましく、婦人を変えれば、また幸もあるだろうと、百人ばかりも、取っ替え引っ替え妾を抱えたけれど、すべて前と同じなので、狂気のようにただただ苛立(いらだ)って、今は独身となって暮らしている。こんなことは、『宇治拾遺物語』その他昔の物語などの中だけだと思っていたが、今目の前に見ようとは。これはその蛇の執念で、その家の血筋を絶やすのだろうと、人々はひそかに噂した。だから生きとし生けるものは、蚤(のみ)・虱(しらみ)にいたるまで、命が惜しいのは人と同じだろう。ましてや交尾しているのを殺すのは、罪深い行為であるはずだ。
 
 
 髙井郡六川郷六川の里(上高井郡小布施町六川)の、山の神の森で栗を三つ拾ってきて、庭の片隅に埋めておいたところ、つやつやと芽を出して嬉しそうだったが、東隣で家に家を作り足したので、月日の恵みが届かず、雨の潤いが少ないので、その年はそろそろと一尺だけ伸びた。ところがこの国のさだめで、冬になると東から西から、南から北から、家に積もった大雪をひたすら落とすので、ちょうど加賀の白山が一夜で突然現れたのと同じで、その山に薪や水を運ぶ道を作ると、まるで愛宕山の石段を登るようである。ようやく2月3月頃、すべてが穏やかになると、隣り隣りの裏口の畑は草木が青く広がって、花も時たま咲くようになるのだが、例の山はいまだに真っ白で冷たい風が吹き、真冬と間違えそうな様子であって、ようやく4月8日にうじ虫の歌をトイレに張る頃になり、山鶯が時節をわきまえた様子で鳴くので、雪の消えた口から見ると、悲しいことに、栗の木は根元からぽきりと折れてしまっていた。人間ならばすぐに無常の煙となって立ち昇る(死んでしまう)はずだが、元の根から段々と青葉が芽吹いて、かろうじて一尺ばかり伸びていたものが、また前のように家に積もった雪を落とし込まれてぽきりと折れ、年々折れて、今年で7年の年月を重ねるが、花が咲いて実をつける力はなく、けれどもこの世の縁は尽きないので、枯れ果てもせず、生涯一尺ほどで、生きているというだけなのであろう。私もまたそれと同じで、長男として生まれながら、意地の悪い弟に地を狭められつつ、継母の山颪(やまおろし)の風にに吹き折られ続けて、晴れ晴れとした世界に芽を出す日は一日もなく、今年で57年、のようなはかない命が今まで尽きなかったのも不思議である。そうではあるが、自分の不運を罪のない草木に及ぼすのは不憫(ふびん)なことであるよ。
 
 そういう因縁なのだろうと思うと、苦しみも普通になった。
 
 
 小さな土鍋があったのを、自分が産んだ子にはあげて、(継子には)あげなかったので、鶯の鳴き声を聞いて詠んだということだ。
 
 
 「親のない子供はどこでもわかる、爪をくわえて門前に立つ」と子供らに唄われるのも心細く、普通の人付き合いもしないで、裏の畑の木・萱などを積んである陰にうずくまって、長い日々を過ごしていた。自分のことではあるが、哀れなことであった。
 
 
 昔、大和の国立田村(奈良県生駒郡斑鳩町)に恐ろしい女がいて、継子(ままこ)に十日ほど食事を与えずにおいてから、飯を一椀見せびらかして言うことに、「これをあの石地蔵が食べたら、お前にもあげよう」と言ったが、継子は空腹に耐えかねて、石仏の袖にすがりついて、しかじかと願うと、不思議なことに、石仏は大口を開けてむしゃむしゃお食べになったので、さすがの継母の邪心も急に改まって、それ以来自分の生んだ子と隔てなく育てたということだ。その地蔵菩薩は今もあって、時節時節の供物がなくなることがない。
 
 
 去年の夏、竹を植える日(5月13日)の頃、つらく悲しいことが多いこの世に生まれた娘は、生まれつきは愚かでもゆくゆくは賢くなれと、名をさとと付けた。今年の誕生日を祝う頃から、手を打ってはアハハ、おつむてんてん、頭をカブリカブリと振りながら、同じような子供が風車というものを持っているのを、しきりに欲しがってだだをこねるので、すぐに与えたところ、さっそくむしゃむしゃとしゃぶって捨ててしまうなど、ほんの少しの執念もなく、すぐに他の物に気移りして、そこらにある茶碗を壊しては、それもすぐにあきて、障子の薄い紙をめりめりむしるので、「よくやった、よくやった」と褒めると真(ま)に受け、きゃらきゃらと笑って、ひたすらむしってはむしる。心の中に一つの塵もなく、名月のようにきらきらと清く見えるので、比類ない演技を見るようで、随分と心のしわを伸ばした。また人が来て、「わんわんはどこに」と言うと犬を指さし、「かあかあは」と聞くとカラスを指さす様は、口元からつま先まで、愛嬌があふれて愛らしく、いわば春の若草に蝶が戯れているのよりも優美に思われる。この幼子を、仏が守っていてくださったのだろうか、忌日の前夜の夕暮れ時に、持仏堂で蝋燭をともして鈴(りん)を打ち鳴らすと、どこにいても気ぜわしく這い寄ってきて、芽を出したばかりのわらびのような小さな手を合わせて、「なんむなんむ」と唱える声は、かわいらしく、上品で、心惹かれ、心打たれる。それにつけても、自分は頭にいくらかの霜を乗せ、額にはしわしわと波が寄せ来る年齢で、阿弥陀様を頼るすべも知らず、うかうか月日を費やすのは、2歳の子供の手前も恥ずかしいと思うけれど、その場を離れれば、早くも地獄に落ちる原因を作って、膝にむらがる蠅を憎み、膳の上を回る蚊を悪く言っては、おまけに仏が禁止した酒を飲む。ちょうどその時、門に月の光が差してとても涼しく、外に子供の踊りの声がするので、すぐに小椀を投げ捨て、片膝を立てて這い出て、声を上げて手まねをして、嬉しそうなのを見るにつけて、いつかこの子を振り分け髪の背丈にして、踊らせてみたならば、二十五菩薩の管弦よりも、はるかに優れておもしろいことだろうと、我が身に積もる老いを忘れて、憂さを晴らしたのであった。このように一日中、つかの間も手足を動かしていないということがなくて、遊び疲れるので、朝は日が高く昇るまで眠っている。その間だけを母親は正月のように思い、飯を炊きそこらを掃き片付けて、団扇(うちわ)をはたはたさせて汗を冷ましていて、寝室に泣き声がするのを目覚めの合図として、手早く抱き起こして、裏の畑で小便をさせ、乳房をあてがうと、すわすわと吸いながら、胸板のあたりをたたいて、にこにこ笑い顔を作ると、母親は長かった妊娠の苦しみも、日々のおしめの汚らしさも、ほとんど忘れて、衣の裏の玉を手に入れたかのように、撫でさすって、ひときわ喜ぶ有様であった。
 
 
 男に嫌われて、実家の親のもとに住んでいると、自分の子供の初節句を見たくても、昼は人目が多いので、
 
 
 子を思うまことの心は、そうであろうと思われて哀れである。「勇ましいつわものの心を穏やかにする」とは、このような真心を言うのであろう。どんな鬼のような男であっても、風の便りに聞いたなら、どうして再び呼び帰さないことがあろうか。
 すべての動物は時代を越えた親族である、と言う。親を慕い子をいつくしむ情は、どうして違いがあるはずがあろうか。
 
 
 楽しみが極まって憂いが起きるのは、この世のならいであるけれど、まだ楽しみが半ばにもなっていない、千年も経るべき小松で、二葉ほどの笑い盛りである幼子が、寝耳に水が押し寄せるかのように、荒々しい疱瘡神に目をつけられて、今水疱ができている最中なので、ようやく咲いた初花が泥雨に打たれてしおれているのと同じで、そばで見ていてさえ苦しそうであった。それも二三日たつと、疱瘡は乾いてきて、雪解けの谷の土がほろほろ落ちるように、かさぶたというものが取れるので、祝いはやして、桟俵法師(さんだらぼうし)というのを作って、笹湯(酒を入れた湯)を浴びせるまねをして、疱瘡神は送り出したが、ますます弱って、昨日よりも今日は望みが少なくなり、ついに6月21日の朝顔の花と共に、この世を去った。母親が死に顔にすがりついて、よよよよと泣くのももっともなことだ。この期に及んでは、ゆく水は再び帰らず、散る花は梢に戻らないなどとあきらめ顔をしても、あきらめがたいのは愛情のきずなであった。
 
 去る4月16日、陸奥(みちのく)に出向こうと善光寺まで歩いて、差支えがあって中止したのも、こうした不幸があるだろうと、道祖神が止めてくださったのだろう。
 
 
 高貴な人々の歌も、心に浮かぶままに、ふと記しました。
 
 
 紫の里(上高井郡高山村紫)に近いあたりの、とある家で、炭団(たどん)くらいの大きさの黒いひな鳥を捕まえて、伏せた籠の中に入れてあったが、その夜親鳥らしく、夜通しその家の上で鳥が鳴いていた、その哀れさに、
 
 
 盗人が、自分の故郷に隠れていて捕らえられ、縛られたことに、
 
 
 御成り場所で、鳥たちが餌まきを慕って集まる不憫(ふびん)さに、
 
 
 さすがの猟師も髻(もとどり)を切って出家したのは、このような時であった。
 
 私が住んでいる里は、奥信濃の黒姫山からだらだら下った片隅なので、雪は夏になって消え、霜は秋に降りるので、橘(たちばな)がカラタチになるばかりでなく、どんな木もどんな草も、気象・風土に恵まれた土地から移し植えると、すべて変わらないものはない。
 
 
 鎮西八郎為朝が、人をつぶてのように投げるところに、
 
 
 老翁が岩に腰かけて、一軸を授ける図に、
 
 
 成蹊子(せいけいし)は、去年の冬にとうとう亡くなったという。鶯笠(おうりつ)のもとから、この頃知らせてきたので、
 
 
 「寄らば大樹の陰」といって、金持ちの家に対しては貧しい者が腰をかがめて、おべっかを使うのももっともなことだろう。ここ(柏原)の諏訪宮に、大きさが牛を隠すほどの栗の古木があって、ざっと見たところでは、木の実が一つもないのに、その下を行き来する人は、毎日取れないことがなかった。
 
 
 が朝早く起きて飯を炊いていたちょうどその時、東隣の園右衛門という人の家の餅つきだったので、「いつものように餅が来るはずです。冷えてしまってはだめでしょう。ほかほか湯気の立つうちに賞味しなさい」とが言うので、今か今かと待ちに待っていて、飯は氷のように冷えてしまい、餅はとうとう来なかった。
 
 
 他力信心、他力信心と、一途に他力に力を入れて頼みにする者は、結局他力の縄に縛られて、自力地獄の炎の中へぼたんと落ちてしまいます。その次に、このような汚い愚かな人間を、美しい黄金の肌にしてくださいと、阿弥陀仏に無理にお願いし、お願いしっぱなしにしておいて、すでに五体は仏のようになったとすまし顔をしているのも、自力の張本人でしょう。お尋ねしますが、どのように心得ていれば、真宗のご本旨にかないましょうか。答えて言いますが、別に小難しい理屈はありません。ただ自力他力、何だかんだというごみくずを、さらりと遠い海に流してしまって、さて後生の一大事は、その身を如来の御前に投げ出して、地獄であっても極楽であっても、あなた様のお考え次第、どのようにでもしてくださいませと、お頼み申し上げるだけです。このように決めた上では、南無阿弥陀仏と唱える口の下では、欲を出して盗みをして人の目をかすめるなど、かりそめにも「我が田へ水を引く」というような盗む心を、決して持ってはなりません。そうした時は、無理に声に出して念仏を唱える必要はありません。願わずとも仏はお守りくださるでしょう。これがすなわち、真宗の安心立命の境地ということなのです。あなかしこ。
 
 
 この一巻は、信濃の俳諧寺一茶という者の草稿で、趣は洒洒落落(さっぱりしてこだわらない)としていて、今の世の杜甫である。これはいささかも単なる滑稽やしゃれではなく、それでいて十分に仏道を求めており、兼好法師の徒然草にも倣っておらず、一休・白隠にも当然倣っていない。俳風は独自のもので、芭蕉翁の細みを探求し、あえて世塵を嫌うわけではなく、人情についてもまたなみひととおりではない。私はこの他に何か言うことがあるだろうか。
 
 
 惟然坊は元禄時代の一奇人で、一茶坊は現代の一奇人である。その発句のおもしろさは人々の言い伝えに残っていて、世の語り草になっているとはいっても、それはただ俳諧の表層で、この坊の本旨ではないはずだ。中野の里(中野市)の一之の家に秘蔵されているこの一巻の本は、ふざけた言葉の中に淋しさを含んでおり、可笑しさの中にあわれを尽くしていて、人情・世情・無常・観想など余すところがない。もし160年前の昔にこれがあって、芭蕉翁が目を通されたなら、惟然の兄とおっしゃっただろうか、弟とおっしゃっただろうか。
現代訳トップへ