箱館商人請負場所及び断宿
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まず、文政年間各場所の断宿となっているのは、亀屋武兵衛、和賀屋宇右衛門、浜田屋兵右衛門の3人で、天保年間の前期では浜田屋兵四郎、和賀屋宇右衛門、亀屋武兵衛、秋田屋喜左衛門の4名、天保-嘉永期では浜田屋兵四郎、和賀屋宇右衛門、亀屋武兵衛、秋田屋喜左衛門の4名で、結局文政から嘉永期までは、場所断宿になっている問屋は、箱館株仲間問屋8名のうち半数の4名であったことになる。残りの長崎屋半兵衛、若狭屋宗太郎、角屋吉右衛門、中村屋孝兵衛は、実質的に断宿の機能をもつことはできなかった。
従って同じ株仲間問屋といっても、場所断宿になっている問屋と、断宿になっていない問屋との間には、その利益の上では大きな差があった。また断宿問屋の中でも、同族が場所請負人になっている場合には、経営上非常に有利な立場にあったことはいうまでもなく、たとえば有珠の請負人和賀屋孫十郎と、同場所の断宿和賀屋宇右衛門とは、同族関係と思われるし、新冠場所の請負人浜田屋佐次兵衛と、同場所断宿浜田屋兵四郎もやはり同族とみられ、こうした場合、たとえその場所が小場所であっても、実質的には同一人物が両者を兼ねる形になり、その利益は比較的大きくなったとみられる。まして根室場所のような良場所の断宿になることは、即問屋利潤の増大を意味した。いまここに適切な資料がなく時代が若干下がるが、幕末の元治元(1864)年の問屋別扱沖ノ口御口銭高を示すと次の通りである。
元治元年自1月至7月中問屋扱沖ノ口口銭高
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亀屋武兵衛が6000貫文余で最も多く、次いで長崎屋半兵衛、大津屋茂吉、浜田屋兵右衛門、和賀屋宇右衛門、秋田屋喜左衛門、加賀屋長右衛門、若狭屋宗太郎、中村屋孝兵衛の順になっている。大津屋は嘉永3(1850)年7月初めて問屋株を許可された者であるが、幕末に急激に成長し、元治元年には上位2位にまでのしあがっているのは、安政期以降箱館産物会所に関係するからであり、また長崎屋は場所断宿になっていないにもかかわらず上位にあるのは、長崎俵物取扱いの唯一の問屋であったからである。
以上のように、文化・文政期以降の問屋は、蝦夷地各場所での漁業生産と商品流通の発展に、機敏に対応しながら、そこから可能な限りの利潤を得ることに努めていった。しかし、このことは、問屋のみの動きによって実現したのではなく、そこには流通過程から収益をあげようとする松前藩側の政策と、密着して進められたことに注目する必要がある。