開拓使の神仏分離観の転換

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 こうした重大な転換が現実のものとなるからには、そこには当然ながら開拓使側のある種の決定があったはずである。明治7年、開拓使はどのようなコペルニクス的転換を意味する決断をしたのであろうか。
 開拓使は明治7年6月19日付で、次のような報告を教部省に提出していた。
 
北海道ノ儀ハ従前氏神氏子ノ区別十ニ八九ハ判然不致(中略)社モ亦漁場請負人・出稼人等漁業祈願ノタメ取建候社ニシテ、実ハ一家ノ私社多シ
濃昼村稲荷社ハ氏子四戸ノ外無之、是ハ北海道全国中一二ヲ競フ嶮難ノ山道ニシテ隣村無シ、依テ村社トス、其他濃昼ニ粗等シキモノ数社アリ、亦漁場ニシテ出稼人多ク、尓来蕃殖ノ見込ヲ以テスルナリ(中略)北海道ハ開拓中ニ付、追々人民蕃殖ニ随ヒ、産土神勧請ノ都度可及御打合候
(『神道大系北海道』)

 
 右の史料が北海道における神社の建立背景ないしはその実態がいかに本州に比べて特異なものかを語っているかは多言を要しまい。北海道の諸社が近世の場所請負制を背景にして建立され、それが出稼人と一体となって今に現存していることを、開拓使はこの報告書の中で初めて認識してその旨を教部省に報じたのである。
 この報告書は、言葉をかえていえば、北海道宗教史における近世の近代的連続ないしは再生を決定付けたものであると言っても大過ないだろう。
 また一方、開拓使は明治5年の頃、「北海道ノ儀ハ辺境未開ノ地ニテ従前漁夫商人等願済ニモ無之、神社仏堂勝手次第造立ノ分モ不少、是等ハ来由取調候モ不相分、仍テ向後ハ建置ノ由緒正敷、市在宗敬ノ分ハ格別其余ハ適宜取計、追テ御届可申候。此段モ兼テ及御懸合置候也」(「開公」5735)と、北海道の寺社建立の特異性を認めざるを得ないことも教部省に報告していた。
 さらには、明治4年に札幌神社の祭具の調達に当った開拓使が、磐城平藩から明星稲荷祭具一式を借用もしていた(「開公」5712)。
 こうした開拓使による北海道的な寺社建立の特殊性の容認という史実に徴するならば、前に課題としていた明治4年の湯倉神社の神官-村民一体から成る土着信仰を持続させようとした願いも、恐らく否定されることなく叶えられたに相違ない。
 ちなみに、明治12年の「開拓使函館支庁管内神社明細帳」(道文蔵)によって、その当時における函館の神社のアウトラインを示せば、表11―2のようになる。
 
 表11-2 神社一覧表
社 名
所在地
社 格
沿     革
氏子数
函館八幡宮谷地頭国幣中社慶安年中(1648~52)に巫女の創建に始まると伝承。当初、宇須岸館址にあったが、寛政11(1799)年に元町へ、文化元(1804)年に会所町へ遷座。箱館奉行所の祈願所として、毎年米20俵の支給を受け、正月の神楽と8月の祭礼には、奉行所から葵紋の高張堤灯や幕が貸与されていた。明治維新後も広く崇敬され、明治4年に開拓使の崇敬社、同10年に国幣小社に列した。同11、12年に火災に逢い、同13年に現在地に遷座。同29年に国 幣中社に昇格こ昇格。4,275戸
函館護国神社青柳町  明治2年5月の箱館戦争の後、大森浜で官軍方戦没者の慰霊祭を行い、函館山山麓の現在地に社殿を創建したのに始まる。同7年に官祭招魂社となる。当初、その祭日は、5月11日であったが、明治10年に6月20日に改めた。同10年の西南の役に際し、その戦死者の霊も合祀す。 
山上大神宮片町郷社天和年間(1681~84)、亀田村より現在地に遷座。従来、神明宮と称し、明治7年に山上大神宮と改称。同11年、鰪澗町出火により全焼、仲新町の天満宮へ遷社。1,987戸
市杵島神社弁天町村社勧請年不詳。砲台より慶応2年に遷る。300戸
船魂神社元町村社保延年中(1135~41)の造営と伝える。義経の渡道に際し、神助ありとの伝説がある。延享4(1747)年再造。20戸
東照宮亀若町村社幕命により神山村に奉祭。明治2年の箱館戦争で宮殿全焼。同6年谷地頭、同11年南新町、同12年に現在地に遷座。700戸
稲荷神社蓬莱町無格社幕命により蔵前町に鎮座。維新後、東久世氏が社穀造営、その後、現在地に奉祭。146人
愛宕神社愛宕町無格社勧請年不詳。古くは無火社と称された。大町
天満宮仲新町無格社寛政10(1798)年、函館八幡宮に勧請、文化5(1808)年、常盤町に奉還、文久元(1861)年、現在地に転遷。天神町
稲荷神社高砂町無格社勧請年不詳。文政年中(1818~30)に、社殿再建、安政6(1859)年に再造営、明治5年、函館八幡宮に合殿。同12年、高砂町に遷座。550戸
海神社西川町無格社文久2(1862)年勧請。明治5年、現在地に造営。地蔵町漁夫
豊川稲荷社豊川町無格社文久3(1863)年。  
函館山神社函館山無格社明暦元(1655)年。 函館市中
大森稲荷神社大森無格社勧請年不詳。明治7年再営。 60戸
稲荷神社山背泊無格社勧請年不詳。明治9年再営。 129戸
住吉神社尻沢辺村社 勧請年不詳。安永年中(1772~81)に再営。170戸
亀田八略宮亀田村 郷社 明徳元(1390)年に勧請と伝える。江戸時代には、松前家の信を得ていた。明治9年、郷社に列す。224戸
湯倉神社下湯川村 村社 勧請年不詳。慶応3(1867)年に再興、明治9年村社に列す。104戸
稲荷神社下湯川村 村社 嘉永2(1849)年創立、明治9年村社に列す。17戸
川濯神社下湯川村 無格社 寛文3(1663)年勧請。172人
湯ノ沢神社下湯川村 無格社 安政3(1857)年勧請。11戸
稲荷神社上湯川村 村社 明暦2(1656)年勧請。明治9年村社に列す。64戸
大山祗神社上湯川村 無格社 嘉永2(1849)年勧請。8戸
八幡神社志苔村 村社 天正年中(1573~92)に勧請。明治9年に村社に列す。69戸
稲荷神社志苔村 無格社 勧請年不詳。村中
八幡神社銭亀沢村 村社 正保元(1644)年勧請。明治9年村社に列す。125戸
川潅神社銭亀沢村 無格社 明和元(1764)年勧請。36戸
八幡神社石崎村社 永享年中(1429~41)に盛阿弥敬信の勧請と伝承。明和8(1771)年に神体安置、明治9年村社に列す。 134戸
稲荷神社鍛冶村 村社 江戸時代初期の勧請と伝える。明治9年村社に列す。 61戸
稲荷神社神山村 村社 明和元(1764)年勧請。明治9年村社に列す。61戸
三島神社赤川由 村社 正徳4(1714)年勧請。明治9年に村社に列す。 86戸
稲荷神社赤川村 無格社 江戸時代中期に勧請。 村中
大山祗神社亀尾
字川原続
村社 安改元(1854)年勧請。明治9年村社に列す。 42戸
大山祗神社亀尾
字野広場
無格社 安政2(1855)年勧請。 12戸
川上神社石川村 村社 永禄5(1562)年勧請.明治9年村社に列す。 20戸
比遅里神社桔梗村 村社 安政5(1858)年勧乱明治9年村社iこ列す。 24戸