宇賀昆布

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 ところで一四世紀中葉に書かれたとされる「庭訓往来」(『続群書類従』巻三六一)に諸国の産物が多く挙げられている。その中に「宇賀昆布」も並んでいる。先の「松前蝦夷記」に「東郷亀田村志野利浜ト云所より東蝦夷地内浦嶽前浜まで海辺弐拾里余之所ニテ取申候、尤献上昆布ハ志野利浜宇加ト申之海取分能ゆへ取り申」とあるので、志海苔付近の海岸で採れた昆布のことではないかと思う。
 ところが、天明元(一七八一)年に松前広長が書いた「松前志」(『北門叢書』第二冊)では穀類部で「コンブ並アラメ」を取り上げ、「庭訓、宇賀昆布といへど、東部夷地オサツベ辺を最上とす。宇賀は即ち東部のウカカハにて、福山城下より三十里許あり」と記している。しかし、すでに同書は尾札部昆布が最上級品となった時代の記録であり、宇賀の地の特定に注意を払った記述とはいえないのではなかろうか。
 また、同じ時期に蝦夷地を訪れた平秩東作(江戸の狂歌師・戯作者)が天明四(一七八四)年に「東遊記」(『北門叢書』第二冊)を書いているが、同書には「昆布の事。此地(蝦夷地)に多く出づ。箱館辺の浦より出るもの上品也。松前、江差より出るものは下品也。志野利浜の昆布は上品にあらざれども、長崎俵物にて、異国人懇望する故金高也。庭訓の往来に雲加の昆布といへるは東方雲加といへる所より出る。此物大坂表へ積上て、夫れより諸国へ廻る。献上にもなると云り。」と記されている。幕府御用の蝦夷地の実地調査にしては、箱館辺の浦と志野利浜との関係が適当でなかったり、「庭訓往来」の宇賀はただ東方に位置するとだけ書かれているのみである。
 ついで、松浦武四郎は「蝦夷日誌」で、石崎村にウカカという川があるが、ここ以外に「彼庭訓往来に宇賀の昆布といへるもの外による地名なし。恐らくは此辺りをさしたるものやらん」と記しており、すでに宇賀の地は不確かなものとなっている。ただし、「箱館高龍寺の鐘の銘に宇賀の浦高龍寺と認めあるなり」とも記している。これを見ると大森浜から銭亀沢付近にかけての地を地元では宇賀の浦と呼んでいたのではないかと思われる。
 志苔から噴火湾沿岸の各地が良品質の昆布産地(特に尾札部)として著名になるにしたがって、宇賀昆布は『庭訓往来』の世界だけのものになっていったのであろう。『北海道蝦夷語地名解』は、志苔の原名を「ウカウシラリ」(重岩の意)とし、ウカウが宇賀となり、シラリが志苔となり、「宇賀の昆布と称する名、中古に著し、今知る者稀れなるは惜しむべし」と綴っている。
 ちなみに、現在は地域通称として志海苔町と根崎町の一部をさして「宇賀」という名称が用いられている。