[渡島半島“みち”のはじめ]

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 函館から東渡島の海岸線を津軽海峡沿いに恵山岬を経て、噴火湾へ回り茅部郡森町に至る下海岸・陰海岸沿岸は、北海道で最も早く和人が渡来したといわれている地域である。
 それは、この海域が昆布をはじめ海の幸の宝庫であるということが、対岸にも知れわたっており、海流は速いが至近距離(戸井町汐首岬・大間町大間崎間)18キロメートル、昔の和船(ムダマハギ型など)でも渡航が可能であったからである。
 この地帯に和人が意図的に入り込んだのは13世紀頃からであり、海辺に小村落を形成し漁業を営む。これら、村落相互の交通は磯舟かモチップ(アイヌ船)での往来か、磯辺の平坦地や川の浅瀬を渉歩、あるいは“ししみち”(鹿みち)を辿るだけのものであった。
 和人が組織的に渡来したのは15世紀半ばである。津軽十三湊を根拠地に北陸沿岸まで勢力を伸ばしていた豪族安東氏の一族(渡り党と呼ばれた)が南部氏に追われて渡来。西は上ノ国花沢館から東は下海岸の志苔・志濃里館までに、いわゆる道南12の館を築き経済活動を行うが、下海岸の石崎に端を発したアイヌの蜂起・コシャマインの乱により、花沢館上ノ国町)と茂別館(上磯町茂辺地)を除く10か所の館が次々と陥落される。これに対して和人豪族側は、上ノ国花沢館の客将武田信廣を総指揮官に、態勢を立て直し反撃に移り、長祿元年(1457)コシャマインの乱を鎮定する。茂別館下國家政はその功績を称え『中野路』を辿り上ノ国へと赴く。この『中野路』は木古内から上ノ国に至る山みちで、当時は渡島半島唯一の横断路であったが「仏法僧(ぶっぽうそう)の声、昼さえ聞きし、いと物凄き山中にて、鬼熊の荒れ渡れば、人多からずば、ゆめゆめ行くまじき道なり」としるされており、渓谷をさかのぼり、浅瀬を探し渡って行く、険しい“ししみち”であった。
 武田信廣は、その後上ノ国蠣崎家を継ぎ事実上諸豪族の指導者の地位に着き、第2代光廣は本拠地を大館・松前に移す。文祿2年(1593)第5代慶廣の代に豊臣秀吉から蝦夷地交易の独占権を認められ、慶長4年(1599)氏を「松前」に改め、慶長9年(1604年)にも交易独占権を再確認されて、松前藩を形成した。
 蝦夷島の統治者となった松前藩は、和人の定住地を東は亀田(函館市)から、西は熊石までに限定し、この区域を「松前地または和人地」と呼び和人の定住を認可し、その他の地域を「蝦夷地」、アイヌの居住地とした。そして、亀田以東の内浦湾・襟裳岬・根室半島、国後択捉島を加え知床岬までを「東蝦夷地」、熊石以北宗谷から斜里・知床岬までを「西蝦夷地」と呼んだ。
 幕政下、諸藩は領地の米の石高により格付けられていた。藩の財政は米の収益により賄われており、諸藩は米の生産をあげるため新田開発に力を注いだ。米の採れない松前藩は、松前地・蝦夷地での交易によって得る利益や、商人や船頭あるいは船などに課した諸税によって賄わなければならなかった。松前地と蝦夷地の境には亀田・熊石番所(関所)を、福山・江差・箱館の3港に沖の口(税関)を設け、規定の諸税を徹底して徴収した。
 また、家臣には蝦夷地を知行地・禄として与え、水揚げのよい地域は藩主の領地とした。松前藩は石高9千石で格式大名並みであったが、領内で揚がる漁獲高などからの収益・税収は10万石とも、15万石ともいわれていた。しかし、松前藩は農地の開発はいうにおよばず格別の拓殖政策も持たず、和人の増加も宝永4年(1707)の人口15,848人に対して、天明7年(1787)は26,564人、この80年間で増加は10,716人、率にして1.6倍にしかなっていない。さらに蝦夷地の陸上交通を便利にすることはむしろ好まなかったとも思われ、和人の往来はこれまでどおり、すこぶる困難なものであった。いわゆる“はりみち”も、かって下國家政が武田信廣に会いに行くため通った踏み分け道・木古内山道を、文化年間(1804~17年)に改修したにすぎない。その頃、木古内から北村(上ノ国)までの中間、『湯の岱』に旅宿所を置いたので、ようやくこの道を利用する人も多くなったといわれている。