大鰐町の宿川原はこの幹線道路にちなむ地名である。奥大道沿いにはいくつか類似の地名が現存しているが、大鰐のそれは日本最北の宿川原である。矢立峠をはさんで大館側には矢立廃寺が、大鰐側には高伯寺跡が知られており、いずれもこの時代の大寺院である。前項で触れたように、高伯寺は『津軽一統志』に、後白河院が六六国に建立した国分寺の一つであるとされており(写真78)、奥大道を通じて伝えられた平泉の仏教文化の名残をとどめる。高伯寺とかかわる大鰐町大円寺には、日本最北端の丈六仏である大日如来像(実は阿彌陀如来像)があるが、鎌倉前期のものとはいえ、平泉様式をよく残す彫刻である(写真79)。
写真78『津軽一統志』高伯寺
写真79 大日如来座像
また七時雨峠(ななしぐれとうげ)から分かれて浄法寺・天台寺を経て安比川を下って糠部へ、また安比川を遡(さかのぼ)り米代川沿いに鹿角から能代・日本海へと、奥大道幹線をはさんで北の世界を東西に結ぶルートも拓かれていた。平泉を中心に、この奥大道を東西南北に多くの交易品が行き交(か)ったのである。
『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏初代清衡は、白河関から外浜に至る二十日余の道程一町ごとに笠卒塔婆をたて、その面に金色の阿弥陀像を描かせた(史料五一五)、と平泉の僧による源頼朝への報告にある。
史実であるかどうかは疑問であるが、ただこうした一町卒塔婆には先例がある。『白河上皇高野御幸記』や『中右記』によると、たとえば高野山や熊野山への参詣路に、町数や行程を記した卒塔婆が存在した。とすれば、一町ごとに卒塔婆を設置したかどうかは別として、浄土世界、中尊寺を最終目標とする行程路の整備が北からも南からもあり、その浄土世界に君臨する藤原氏を誇示する舞台装置が準備されていた可能性は高い。かつて律令国家は、全国に延びる七つの道を整備したが、これは仏法に保証された北の世界の新しい道であった。
また黄金の笠卒都婆を一町ごとに置いたこと自体は疑問であっても、その終着点である外浜の知識をもっていたことは確かであろう。外浜・西浜の編成時期も、津軽三郡・糠部と同時であると思われる。『今昔物語集』には、安倍頼時が北の胡国を目指したという説話があるが(史料四三七)、こうした伝説の背後には、奥州の実力者であった安倍・清原・藤原氏と、境界世界外浜以北との深い交流があったのである。
さて平泉藤原氏は、奥大道や北上川水運などを整備することによって、北方世界からの物産の調達、南からの文物の流入を可能にし、かの平泉はその流通ネットワークのターミナルとして栄えることとなった。平泉藤原氏はこうした北方世界につながるネットワークを通じて、糠部産の馬や金、そして鷲羽・水豹(あざらし)皮などの物品を、管理下の荘園の年貢や造仏の功物として京都に送っていた。逆に京都方面から仏像・経文・調度などの物品が運ばれてきた。モノだけでなく文化、京都風の仏教儀礼や生活様式も流入した。柳之御所跡遺跡の発掘により、その邸宅も園地を伴った寝殿造り、京都風の生活であった。また出土遺物も質・量ともに豊富で、陶磁器とともに大量のかわらけが出土している。かわらけとは素焼きの土器で、儀式的な宴会の際に、使い捨ての食器として使用されるものである。このかわらけを使用した宴会は京都の貴族の世界で行われていたことであり、平泉の地でも京都風の宴会を行っていた。かわらけは京都との文化的な距離を示す尺度となり、平泉は京都に近い地方都市であったことがわかる。