天正十八年(一五九〇)三月一日、豊臣秀吉は京都をたち、小田原の北条氏攻略の途についた。すでに、前年の天正十七年八月二十日付の前田利家(まえだとしいえ)が南部信直(なんぶのぶなお)に宛てた書状から、秀吉の出馬による奥羽の仕置が具体的に構想されていた(資料近世1No.二)。そして、小田原出陣中の天正十八年四月十一日に真田氏に宛てた朱印状の中で、小田原城を兵糧攻めした後に「出羽・奥州・日ノ本之果迄モ被相攻、御仕置等堅可被仰付候」(「武家事紀」巻第三〇)と奥州への仕置を行う意志があることを明らかにしている。さらに、秀吉が四月十三日に北政所の侍女五さへ宛てた消息では、日本の三分の一に相当する小田原から奥州までの地域が自分の支配領域に入っていないことを認めている(「高台寺文書」)。秀吉は、奥州にまで到達すれば日本の支配は完了するというように認識していたということになる(長谷川成一『近世国家と東北大名』一九八九年 吉川弘文館刊)。
さて、北条氏を攻略した秀吉は、天正十八年七月十七日、いよいよ奥羽仕置のために小田原から会津黒川に向かった。そして、七月二十六日に宇都宮に到着し、ここで奥羽仕置の基本方針を示した。それは、①当知行安堵、②妻子在京(人質徴収)、③検地の実施、④城破(しろわ)り、の四点であった(資料近世1No.一六)。