右の朱印状は、津軽為信が御鷹を津軽から上方へ献上するのに、その道筋に当たる日本海側の各主要な宿泊地において、鷹餌(たかえさ)の給与と道中の賄いを援助せよ、というものである。同文書の包紙は、津軽右京亮宛になっているので、直接には為信へ宛てたものであろう。この文書を携帯して津軽からの鷹献上使が、日本海沿岸を上方を目指して南下したと推測される。道筋は羽州街道の一部、次いで北国街道が大部分を占め、本州北端から京都までの街道と各施設を確定し、各地に負担を負わせるものであった。
このように鷹献上が津軽から上方へ恒常的に行われることになり、沿道の各宿泊地並びに道路は鷹献上街道として位置づけられ、当然のごとく整備が図られたはずである。これは文禄元年(一五九二)の朝鮮侵略に際して、本州北端から九州の肥前名護屋へ、当該地域の大名が出陣するのを結果的に容易にする効果をもたらすことになったのではなかろうか。
同様に夷島の蠣崎(かきざき)氏も鷹献上を下命され、文禄二年(一五九三)正月、豊臣政権から日本海沿岸の各大名に対して、松前から京都に至る鷹献上の道中に支障のないように指令が下された(『福山秘府』)。統一政権によって、夷島と津軽からの鷹献上のために、街道筋が整備されたのである。本州北端の津軽からの鷹献上に次いで、文禄期に入って松前から京都に至る鷹献上の下命がなされたことにより、統一政権による鷹献上システムがここに完成した。これは徳川政権にあっても引き継がれ、慶長九年(一六〇四)八月、徳川家康は松前から京都に至る鷹献上に、沿道の各大名が宿泊と餌の給与の援助を与えるように命じた(資料近世1No.一九三)。交通路に利用された奥羽地方の各街道の領内では、人夫・伝馬(てんま)が頻繁に徴用されたのであった。
図7.鷹献上の道筋