比内浅利氏は、甲斐源氏(かいげんじ)の一族であり、浅利与市義遠(よいちよしとお)を祖とする。本貫(ほんかん)の地は甲斐国浅利郷であるが、文治五年(一一八九)の奥州合戦に頼朝につき従い参戦した恩賞として秋田の比内地方を与えられたという。しかし、浅利氏はこの後も依然として甲斐国浅利郷を本拠地としており、天文年間ころ、本拠地を甲斐国から比内へ移したとされている。時の当主は浅利則頼(のりより)で、十狐(とっこ)城を築き、一族を比内地方に配置し勢力を拡大した(大島正隆「北奥大名領成立過程の一段面 ―比内浅利氏を中心とする考察―」『東北大名の研究』一九八四年 吉川弘文館刊)。
浅利則頼は、天文十九年(一五五〇)に十狐城で平穏のうちに死去した。しかし、その跡を継いだ長子則祐(のりすけ)は永禄五年(一五六二)八月、檜山(ひやま)安東愛季(ちかすえ)によって攻められ、扇田(おうぎだ)長岡城(現秋田県比内町扇田)で自害して果てた。その後愛季は、則祐の弟勝頼(かつより)を浅利当主に立てることにより南比内を勢力下に収め、さらに永禄十三年(一五七〇)には湊(みなと)安東家を併合し、北奥羽から夷島(えぞがしま)に及ぶ大勢力を形成した(長谷川成一他『青森県の歴史』二〇〇〇年 山川出版社刊)。
この後、奥羽の地は大浦為信・安東愛季・南部信直らとの間で一時的な均衡状態が保たれるが、天正九年(一五八一)、長岡城主浅利勝頼はそれまで臣従してきた愛季からの独立化をもくろみ合戦に踏み切った。しかし、同十一年、愛季は檜山城で会見し、勝頼を謀殺した。この時、大浦為信は、浅利勝頼の子頼平を援助し、浅利氏遺臣をその家臣団に組み入れるとともに、仙北角館(かくのだて)城主戸沢盛安(とざわもりやす)とも連携して安東勢を牽制(けんせい)し、天正十二年以後連年のように比内進攻を繰り返したが、結局成功せず、比内は安東領に併合されてしまった。この後、天正十五年(一五八七)、安東愛季が急死し、わずか十二歳の実季(さねすえ)が家督を継いだ。この機会を好機とみた南部信直は、天正十六年、大館城将五十目(ごじゅうめ)兵庫を抱き込んで比内地方を奪取した。また、かつての湊城主茂季(しげすえ)の子湊九郎通季(みちすえ)(高季)もこの機に南部氏・戸沢氏らの支援を得て、天正十七年二月、秋田湊城の実季を急襲し、ここに湊合戦が始まった。実季は檜山城に逃れ、由利地方の小名や夷島の蠣崎(かきざき)氏、津軽の大浦為信の支援を得て、檜山城に籠城すること五ヵ月でようやくこの湊合戦に勝利を得ることができた。