為信の築城計画

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津軽統一を成し遂げた藩祖為信(ためのぶ)は、領国経営の中心として高岡(たかおか)(弘前)を選定し、慶長八年(一六〇三)に町屋建設を命じた(資料近世1No.一七九・一八〇)。この建設が築城と一緒であったのか、別であったのかははっきりしないが、『永禄日記』(北畠本)では、高岡に築城計画があったことを推定させる。為信が当時の本拠堀越(ほりこし)城(現弘前堀越)を捨てて、高岡築城に踏み切った理由は、堀越城が水に弱い欠点を持っていたためである。「津軽徧覧日記」の慶長十一年(一六〇六)の条に、正月下旬堀越城下が洪水に悩まされていた様子がみえる。また、城跡内に洪水の痕跡(こんせき)がある程度確認されていることからも(『堀越城跡 前川災害復旧関連工事遺跡発掘調査報告書』一九七八年 弘前市教育委員会他刊)、堀越の地は津軽氏にとって領国経営の中心地として、必ずしも適切な地ではなかったようである。
 しかし、為信時代に高岡の町屋建設が、どの程度進展したのかは不である。慶長十一年五月に、高岡の町屋に引き移る者へ米穀を給し、町並みがしだいに整うという記録があるが(資料近世1No.二二二)、移住奨励策をとらなくてはならなかったのは、あまり進展がみられなかったということの裏返しとも考えられる。為信は死亡する慶長十二年(一六〇七)まで毎年上洛(じょうらく)しており、町屋建設の陣頭指揮をとれる状況ではなかった。この点は、家康も江戸城建設に取りかかりながら、毎年上洛していたため工事が遅々としてはかどらなかった状況(藤井譲治『日本の歴史⑫ 江戸開幕』一九九二年 集英社刊)と共通するものがある。
 なお、高岡の地を選定するに当たって、軍学者沼田面松斎(ぬまためんしょうさい)の意見を用いたといわれているが、今の長勝寺付近の台や茂森山(しげもりやま)(現弘前市森町付近)も候補地として考えられたという。