(2)したがって、小給者の内、役柄により望みの者に、在地住居での荒れ地の開発・手作りを許可する。
(3)この場合、在地百姓を使用してはならず、自分手人数で荒れ地を開発すること。
(4)在地へ引っ越した者へは手当を与える。勤仕については、追って沙汰する。
(5)望みの者は、郡・勘定奉行に問い合わせ、確認のうえ申し出ること。
等である。
これまでと同様、小給者の困窮対策が直接の目的となっており、また、まったくの自分「手人数」をもっての開発となっているが、勘定奉行への「承合」や勤仕の問題が取り上げられていることから、小給の者の内には知行取層が含まれていると考えられ、手当金の支給も含めて、藩の土着策の実質的な起点として位置づけられる。
そして、この方向性は必然的に、領内の土地と人別把握を展開することとなった。『記類』寛政三年条によれば、寛政三年(一七九一)の春から人別戸数改めを行うとともに、商売の株を定め、また在方の商家の数を定めて、特に城下に滞留している人々の帰農を図り、さらには、馬改めも実施している。このほか、寛政二年八月には検地人を定め、明細な田畑生荒調査を行っている(「国日記」寛政二年八月二十日条)。
これらは、帰農令および生産基盤の把握を意味するものであるが、特に寛政二年の検地が本検地ではなく、荒地吟味をその主な内容としているところから、土着策との関連が強いといえる。つまり、開発人数と地方割の問題である。知行取層の給地在宅による荒地開発は、必然的に給地百姓の労働力化と、給地における荒地と耕作可能な「生地」の総合調整が必要とされるからである。郡奉行と勘定奉行を土着策の担当としたのは、この理由からである。
なお、寛政元年、大庄屋制が廃止された。これは、土着によって多くの藩士が農村に入ると、大庄屋レベルでの対応が困難になるからである。その結果、代官を農村支配の前線に置き、しかも代官職にこれまで以上に強力な権力を持たせ、上級藩士を任命することにした。このことはまた、大庄屋を中心とした廃田開発の方針を変更したことにもなる。土着策実施の前提の一つとして挙げておく必要があろう。
こうして、同三年一月、赤石安右衛門が郡奉行(勘定奉行兼帯)に、菊池寛司が勘定奉行(郡奉行兼帯)に登用され、五月までには、いわゆる「寛政七人衆」が出そろうこととなって改革の人的基盤も整い、いよいよ土着策が本格的に実施されることとなる。