高岡霊社の宝蔵・弘前城の金蔵へ侵入

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真言宗久渡寺(くどじ)(現市内坂元)の役人の今庄太郎は、安政三年(一八五六)十一月九日に、第四代藩主津軽信政(のぶまさ)を埋葬した高岡(たかおか)霊社(現中津軽郡岩木町百沢、明治初年に高照神社と改称)の御宝蔵の錠前を破って侵入し、太刀・小刀などを盗み、同十一日には弘前城の御金蔵に二度も侵入して盗みを働いた。それが発覚したのであろうか、二十七日には久渡寺の居間で腹を切って自殺を図り、二十九日に死亡した(同前安政三年十一月二十八日条・同十二月一日条・同十二月二十五日条)。
 右の件について、「国日記」十二月七日条によれば、塩詰めにした死骸は冬至中にもかかわらず、取上の御仕置場(はりつけ)に処せられることになった。
 庄太郎に対する刑罰は、「文化律」の項目「盗賊御仕置之事」・「御蔵之財物を盗取候者御仕置之事」の中の規定をもとにし、「安永律」制定以前の判決例、「安永律」の項目「親殺之者御仕置」と「寛政律」の項目「御城中江入盗致候者」の中の規定を参照した。さらに幕府法の「公事方御定書」第八七条の「重科人死骸塩詰之事」、中国の「明(みん)律」および「清(しん)律」をも参考にしているのが知られる。
 幕府のの方法は次のようになる。
 柱は長さ約三・六メートルの栂(つが)の木で、下は約九〇センチメートルを土中に埋めて立てる。両手を開いて縛るために上方に横木が一本あり、これで十の字になるのであるが、男は足を開いて大の字に縛るから下にも足首を縛る横木があり、キの字形になる。また、開いた股のところにも木を打って股を支える。女は足を開かず直立させるため、足もとに直径約三〇センチメートルの半円形の受け台をつける。
 いよいよ処刑である。非人二人が槍をえて左右に立ち、処刑者の眼前約六センチメートルのところで、二本の槍をかちりと交差させる。これを見せ槍という。次にその一方が気合をかけて、横腹から肩先にかけて力いっぱい突き上げる。光った長い穂先が肩から上に三〇センチメートルほど抜き出る。一捻りひねって引き抜くと、間髪を入れず他の一人が反対側から同様に刺し貫く。たいていの者は見せ槍で気を失い、一突きされると大声で悲鳴をあげて泣きわめき、鮮血はほとばしり出て、食物もいっしょに流れだし凄惨な光景が現出する。多くは二突きか三突きで絶命するが、非人わず左右交互に二四、五回から三〇回突きまくるのがしきたりであった。

図12.刑の様子


図13.刑場の配置

 検使の合図で、竜吒(りゅうた)と呼ばれる三爪か二爪の長い熊手を持った非人が柱に近づき、がっくりとなっている処刑者の髷(まげ)に熊手をひっかけて首を上に向かせる。最後が止めの槍といって、槍を持った非人が処刑者の咽喉部を右から左上に一槍刺し通して終わる。死体はそのまま二夜三日さらしておき、三日後に非人が穴に放り込んで片づける(前掲『図説江戸の司法警察事典』・『拷問刑罰史』)。
 津軽領で行われたもこのようなものであった。塩詰めにされた庄太郎の死体に対するの方法は生体のと同じであるが、悲鳴をあげることも、鮮血がほとばしることもなかった。それでも、惨(いたまし)い光景には変わりがなかったであろう。
 庄太郎は、信政を埋葬し祭神とする神社の宝蔵と、藩政の中枢であり藩主の住まいでもある弘前城中の金蔵へ、盗みのために侵入したのであるから、見せしめとして死体をもにする厳罰に処せられたのである。