右の件について、「国日記」十二月七日条によれば、塩詰めにした死骸は冬至中にもかかわらず、取上の御仕置場で磔(はりつけ)に処せられることになった。
庄太郎に対する刑罰は、「文化律」の項目「盗賊御仕置之事」・「御蔵之財物を盗取候者御仕置之事」の中の規定をもとにし、「安永律」制定以前の判決例、「安永律」の項目「親殺之者御仕置」と「寛政律」の項目「御城中江入盗致候者」の中の規定を参照した。さらに幕府法の「公事方御定書」第八七条の「重科人死骸塩詰之事」、中国の「明(みん)律」および「清(しん)律」をも参考にしているのが知られる。
幕府の磔の方法は次のようになる。
磔柱は長さ約三・六メートルの栂(つが)の木で、下は約九〇センチメートルを土中に埋めて立てる。両手を開いて縛るために上方に横木が一本あり、これで十の字になるのであるが、男は足を開いて大の字に縛るから下にも足首を縛る横木があり、キの字形になる。また、開いた股のところにも木を打って股を支える。女は足を開かず直立させるため、足もとに直径約三〇センチメートルの半円形の受け台をつける。
いよいよ処刑である。非人二人が槍を構えて左右に立ち、処刑者の眼前約六センチメートルのところで、二本の槍をかちりと交差させる。これを見せ槍という。次にその一方が気合をかけて、横腹から肩先にかけて力いっぱい突き上げる。光った長い穂先が肩から上に三〇センチメートルほど抜き出る。一捻りひねって引き抜くと、間髪を入れず他の一人が反対側から同様に刺し貫く。たいていの者は見せ槍で気を失い、一突きされると大声で悲鳴をあげて泣きわめき、鮮血はほとばしり出て、食物もいっしょに流れだし凄惨な光景が現出する。多くは二突きか三突きで絶命するが、非人は構わず左右交互に二四、五回から三〇回突きまくるのがしきたりであった。
図12.磔刑の様子
図13.磔刑場の配置
検使の合図で、竜吒(りゅうた)と呼ばれる三爪か二爪の長い熊手を持った非人が柱に近づき、がっくりとなっている処刑者の髷(まげ)に熊手をひっかけて首を上に向かせる。最後が止めの槍といって、槍を持った非人が処刑者の咽喉部を右から左上に一槍刺し通して終わる。死体はそのまま二夜三日さらしておき、三日後に非人が穴に放り込んで片づける(前掲『図説江戸の司法警察事典』・『拷問刑罰史』)。
津軽領で行われた磔もこのようなものであった。塩詰めにされた庄太郎の死体に対する磔の方法は生体の磔と同じであるが、悲鳴をあげることも、鮮血がほとばしることもなかった。それでも、惨(いたまし)い光景には変わりがなかったであろう。
庄太郎は、信政を埋葬し祭神とする神社の宝蔵と、藩政の中枢であり藩主の住まいでもある弘前城中の金蔵へ、盗みのために侵入したのであるから、見せしめとして死体をも磔にする厳罰に処せられたのである。