明治元年(一八六八)も三月となり、春を迎えると、藩は軍事活動を本格的に始動させる必要に迫られた。これまで弘前藩は外に対しては中央情勢を収集し、内にあっては政情の判断分析に徹し、藩士らの軽挙を戒め、武備専一を標榜(ひょうぼう)してきた。藩論が勤皇になろうが、列藩同盟側になろうが、近い将来に戦闘が起こることは容易に推測しえた。そのため軍事的備えは焦眉(しょうび)の課題であった。
当藩では戊辰戦争を乗り切るために、同月五日の惣触(そうぶれ)によって和蘭(わらん)新式の銃隊編成が命じられ(資料近世2No.五一四)、十八日には軍政局が設置されて近代西洋式軍事力の創出が行われているが(同前No.五一二)その改革は何の下地もなく、突然断行されたのではない。つまり、藩では蝦夷地警備の必要から洋式銃器の導入には嘉永年間ころより熱心であり、この軍制改革もそうした一連の武備充実の流れが拡大的に発展したものといえる(なお、幕末軍制動向の詳細については第四章第五節参照)。では、その洋式銃器整備とはどの程度進んでいたのであろうか。
嘉永三年(一八五〇)、弘前藩が海岸警備に関して幕府に提出した報告書には、「三月四日より七月四日迄御国元海岸䑺通候異国船之数凡三拾七、八艘なり」とあり(「前田文正筆記」『青森縣史』四)、当時からロシアやアメリカの捕鯨船や商船、軍艦などが頻繁に沿岸各地に出没していたことがわかる。こうした状況に危機感を強めた藩では、沿岸の要地に遠見番屋(とおみばんや)や大砲台場を築き、盛んに大砲の鋳造を江戸や上州(現群馬県)で行わせて国元に運んでいる(「前田文正筆記」嘉永四年正月二十八日条『青森縣史』四)。また、藩内の砲術師範家に命じて高島秋帆(しゅうはん)流の砲術を学ばせたり、藩士を派遣して江川太郎左衛門・勝海舟(かいしゅう)・福沢諭吉などの西洋軍隊に詳しい学者の門下生とするほか、幕府の海軍操練所にも多くの藩士を留学させて、積極的に洋式砲術を導入しようとした。
大砲の整備ばかりでなく、洋式小銃の導入にも藩は意欲的に取り組んだ。嘉永五年(一八五二)四月には八匁(もんめ)玉ゲベール銃一〇挺が廻船(かいせん)で取り寄せられたのを皮切りに、元治元年(一八六三)には一〇〇石以上の上士にゲベール銃が配布され、さらに慶応元年(一八六五)三月に入り、足軽隊も従来の和砲・長柄(ながえ)・槍などを廃止してゲベール銃隊に改変された(『弘藩明治一統誌・武備録』)。藩主承昭(つぐあきら)もたびたび自筆書を発して、洋式銃器は近来の戦闘では不可欠の利器であり、それは臆病とか剛胆にかかわりなく、まったく便利な機器であるなどとして、鉄砲などは足軽のような卑賤(ひせん)の者が持つ武器だとの意識を改めるよう訴えている(『記類』)。このような事情を背景として、洋式小銃も蝦夷地警備に備える必要から、比較的早い時期から藩士間に普及していたのである。
さらに、洋式銃砲の導入と並行して、文久三年(一八六三)に藩では修武堂(しゅうぶどう)と称する武芸鍛錬所を城内に設置し、藩士の武芸鍛錬を組織的に行うこととした。修武堂では総裁として家老西館宇膳(うぜん)が武芸引担方に任命され、以下番方(ばんかた)(軍事部門)の上士が中心となって備方(そなえかた)・武芸調方・武芸締方(しまりかた)などの諸役が差し立てられた。また、諸組の武芸鍛錬も日時を定められ、各流派の剣術・槍術師範家門弟の弟子二〇人が教官となって、流派を無視した面仕合(めんじあい)稽古という統一的訓練が実施された。江戸時代には流派の独立性を堅持(けんじ)するために、他流試合は論外とされており、この一事例をみても当時いかに藩が諸士の操練に力を注いだかがわかる。明治元年三月五日、この修武堂に砲隊頭や銃隊教授、洋式武器に精通している者などを結集することで藩の軍制改革は始まったのである。