松前勢も知内(しりうち)において夜襲を仕掛けるが敗退。二日、一ノ渡峠、三日、福島峠、四日、吉岡まで旧幕府軍に押し戻され、五日には松ヶ崎・野越が突破されて、とうとう松前城へ撤退することとなった。松前城の攻防は激しいものであったが、旧幕府軍は搦手(からめて)門からも一隊を突入させ、とうとう本丸内での戦いまで持ち込んだ。結局松前城は持ちこたえられずに落城し、松前藩兵は城下に火を放ちながら館城や江差へと退却していった。こうして松前は旧幕府軍に掌握されていったのである。
その間、松前からは援軍の要請が弘前藩へ届いていた。松前藩主徳広(のりひろ)からは十月晦日付で援軍を要請する内容の書状が弘前藩主宛てにもたらされ(同前No.五五六)、十一月七日にも、松前藩家老より弘前藩家老宛てに、相次ぐ敗戦の状況を説明した十一月三日付の援兵催促状が届けられた(『弘前藩記事』一)。
同七日中には青森にいた杉山上総(かずさ)らからも、三厩(みんまや)から報知された五日の松前城落下における激戦の様子が報告された。また、同日に起こった事件についても急ぎ書き送られたのである(『弘前藩記事』一)。その事件とは、突如陸奥湾(むつわん)に現れた旧幕府軍艦回天と蟠龍に関するものだった。
七日早朝、青森港付近に現れた二艦のうち、蟠龍は陸奥湾を回漕して行方を転じたが、回天へは、弘前藩から安済丸船頭野村惣平が遠見役人(とおみやくにん)として乗り込んだ。折衝の結果、奥羽越列藩同盟へ宛てた書状が差し出された。その書状では、彼らの行動は、蝦夷地が「皇国北門枢要之地」であるから、政府に追われて居場所を失い、降伏するべき罪科がない旧幕府勢で開拓を行い、他国からの憂いを絶つ目的であることを告げていた。また、列藩同盟諸藩に対して、「日本北門」のために尽力することを望むということが述べられていた。そして、それらが理解されず賊軍と見なすのであれば、徹底抗戦せざるをえないと締めくくっていたのである。
さらに、回天は平舘(たいらだて)(現東津軽郡平舘村)にも停泊したが、同日平舘陣屋で旧幕府側の浪士代表四人と同所詰須藤仁十郎が話し合った(資料近世2No.五五八)。浪士からは庄内酒井氏や盛岡藩に対する処分についてや政府軍の状況について、また清水谷らの行方についての問いが発せられた。質問については必要最小限の回答を示し、また、須藤仁十郎も今回の旧幕府軍行動の目的、戦争の状況などを問いただしたのであった。そしてこの中で、目的は、嘆願書の提出にあり、略奪の意図は決してないことが念押しされた。対談を終えた旧幕府勢は、回天に戻り、再び二艦で陸奥湾を巡った後、やがて蝦夷地へ戻った。
嘆願書の提出とはいいながら、その行動は、敵情視察を目的とした斥候船であり、示威的行動とも受け取れるものであると判断された。したがって、弘前藩では、旧幕府軍艦隊の襲撃を恐れ、油川へ陣を置くとともに北方の警備強化を各湊へ通達した。また、小泊(こどまり)・鰺ヶ沢(あじがさわ)など西北沿岸の湊へも順次警備強化が命令される。さらに、八日には熊本藩へもこの事件を報じる書状を作成し、援兵協力を求めた(『弘前藩記事』一)。
同月十日、三厩に派遣されていた斥候が松前城陥落とその後の城下の様子を報告し、翌十一日には軍議が青森において開かれたが、ここでは江差へ出兵し、その後、松前城下の恢復を目指すことが話し合われた。既に斥候隊が派遣され、兵糧米などを送っており、青森に滞在していた各藩兵の出兵準備が整えられつつあった。
弘前藩は青森港の警備を一手に任されていたが、総攻撃の際、江差への出兵に自藩が除かれては「北門之御任」が立たずとして、前導として渡海の任に当たることを申し出た。これはもっとものこととして受け入れられた。そして、その対処策として、先に命じられていた盛岡藩主らの東京への護送兵を転用したいとした。弘前藩は、「弘前ヲ空ニシテモ兵隊差出」という決意を表明したのである(同前)。藩は自領を守るためにも、政府や官軍諸藩に働きを示すためにもこの機会は逃せなかったといえよう。十三日には、松前藩へも出兵手配が行われていることが報じられた。
図67.箱館・松前付近図
十一月十六日、清水谷公考一行は黒石に転陣。盛岡藩主ら護送の件については、十月三十日に命じられていたのだが、十一月二十一日、その任は奥羽監察使藤川能登(おううかんさつしふじかわのと)の兵で行うこととなり、弘前藩兵はその任を免除されることが通達された(『弘前藩記事』一)。