ところが、このような藩の方針は神葬祭(しんそうさい)(神式の葬式)の一般人への広まりと、新生青森県による神職廃止によって大きく転換せざるをえなかった。
神葬祭は神職についてはすでに認められていたが、明治三年(一八七〇)藩士兼松(かねまつ)三郎から自家の葬儀を神葬祭に改めたいとの願いが出された。藩では葬式はこれまでどおり一般人は仏式で行うであろうから、神社による葬式にはほぼ無関心であった。ところが、もし庶民に神葬祭が広まれば村の産土神や鎮守の神社で葬式が執り行われ、自然、仏教色が神社、特に仏体を祀る神社・小社に及びかねない心配が出てきたのである。そこで明治四年二月、藩では布令を出して仏号の産土社・鎮守堂を廃止することとした。また、従来こうした仏体神号の堂社を拠点に活動してきたのは修験者であり、これを契機に藩では修験者の復飾神勤を推進した。その結果、明治三年末には一六人しか復飾する者がいなかった修験者は、明治四年に入って二九名に増加し、修験者の頭であった大行院(だいぎょういん)も同年四月に復飾して神主となり、天満宮を譲り受け、茂森町観音堂の廃社に伴って多くの氏子から依頼を受けて重要な祈祷を行う存在に転身したのである。こうして、仏号の産土社・鎮守堂の廃止により安政二年(一八五五)には少なくとも一一三三社確認された神社は六五〇社に減少した。
ところが、神職をそのまま任用するという従来の神社制度は廃藩置県以後まったく否定された。明治四年五月に新政府は世襲神職を廃止して新たに神官を補任する旨の太政官布告を発し、神社を官幣(かんぺい)社・国幣(こくへい)社・府社(ふしゃ)・藩社(はんしゃ)・郷社(ごうしゃ)に編成する神社改正を発表したが、これが青森県成立後に県内に布告され、神職は追々その職を解かれることとなった。布告後、神職間では生活がどうなっていくのかとの不安が高まり、廃社地の配分などをめぐって県に対する不平が増していったが、明治六年(一八七三)三月付ですべての神職は解任され、翌四月に神官が新任された。その際、神官は祠官(しかん)・祠掌(ししょう)・准祠掌に区分されたが、旧神職のうち新任されずに帰農した者も多くいた。また、新任された神官も従来の氏子圏とはまったく異なる場所に配置された者がほとんどであり、神官たちのなかには在地性を喪失して氏子たちの抵抗にあった者もあり、ここに弘前藩の神社制度は消滅したのである。新政府は神仏分離によって神道の国教化を意図したが、近代神社制度と近世の同制度とは断絶したものといえよう。