(一)衣服

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 武士の礼服としては、将軍の上洛参内(じょうらくさんだい)(京都の朝廷へ挨拶に参上すること)や将軍宣下(せんげ)(朝廷から将軍に任じられること)など朝廷関係の重い儀礼の場合には、将軍以下一般大名以上が束帯(そくたい)をいている。しかし幕府や大名家における重い礼装は、直垂(ひたたれ)・大紋(だいもん)・素襖(すおう)であった。直垂は将軍以下諸大名の四位以上の人々が着し、大紋は五位の諸大夫(しょだいふ)(一般大名)、素襖は無位(むい)の御目見(おめみえ)(将軍に謁見する資格のある武士)以上がいている(谷田閲次・小池三枝『日本服飾史』一九八九年 光生館刊)。
 津軽弘前藩八代藩主津軽信明(のぶはる)は、天明五年(一七八五)元旦、弘前城本丸御殿において恒例の諸行事が行われる前の六時過(むつどきすぎ)(午前六時過ぎ)に大紋を着して、神棚と先祖を祀る霊殿を拝み、さらに上の廊下より岩木山を拝礼している(「在国日記」国史津、弘前城本丸御殿平面図は図87参照)。信明は従五位下(じゅごいのげ)に叙爵されているので、大紋の着は幕府の服制にのっとったものといえよう。

図84.大紋 武家五位諸大夫礼服

 直垂系に次ぐ礼服として(かみしも)(上下)があり、左の三種類がある。
①長(ながかみしも)(長上下)――肩衣(かたぎぬ)(の上下(じょうげ)、色を異にしたもの)・長(ながばかま)(引きずるように長い)を使
②半(半上下)――肩衣・半(はんばかま)(裾を足首までの長さにした短いもの。切(きりばかま)ともいう)を使
③継(つぎ)(継上下)――肩衣と半の色が異なるもの

(①②③は武士生活研究会編『武士の生活Ⅰ』一九八二年 柏書房刊、前掲『日本服飾史』)。

 次に信明が書き記した天明四年から寛政三年(一七九一)までの在国中の日記「在国日記」(日記の最初天明四年九月~十二月、同五年正月、天明四年十二月と比較できるので寛政二年十二月によった。なお天明四年十二月および寛政二年十二月は資料近世2No.一九九参照)から、信明が着していた衣服は、おおよそ左のようになり、藩主の服装を知ることができる。
 朝起床後の霊殿・神前への拝礼に際しては、天明四、五年(五年元旦の大紋〈前述〉を除く)は熨斗目(のしめ)長の着が多い。熨斗目とは上下(うえした)が無地(むじ)で腰の部分に地白の織縞のある小袖を指した(前掲『日本服飾史』)。寛政二年では麻(あさかみしも)がほとんどである。麻は長か半か不明であるが、『日本服飾史』によれば、の地質が麻のことである。
 藩主家菩提寺である長勝寺(ちょうしょうじ)(現市内西茂森一丁目)・報恩寺(ほうおんじ)(現市内新寺町)へ参詣するために着した衣服は、ほとんど記されていないが、麻と長がみえるだけである。
 信明が襲封後初めて入国したのは天明四年(一七八四)八月二十日であるが、同年九月一日、二日には、熨斗目長で各座敷へ出座し、継目(つぎめ)(襲封)の礼を受けている。十一日には麻を着て山吹(やまぶき)の間へ出座して、着城祝儀の礼を受けた。
 翌五年正月一日~十五日までは年頭のさまざまな礼を受ける行事が続いている。この時に着したのは、熨斗目半・熨斗目長・長(熨斗目長のことか)であった。
 毎日家老と会って藩政について話を聞き決裁をしているが、この時の服装は継・麻(長か半か不明)が多く、次いで肩衣(長か半か不明)・平服(へいふく)である。天明四年十二月十一日は麻から平服へ着替えており、翌五年正月二十二日には熨斗目麻から平服へ着替えているのがみえる。この二例からだけでは藩主の平服が(継を指すのか、)どの衣服を指すのかは明らかでない。