図104.下級武士の内職
藩士の生活困窮を質屋との関係からみると、江戸時代を通じて弘前城下の質屋の数は、どれくらいあってどのような変遷があったのかはまったく不明である。わずかに、元禄三年の「松井四郎兵衛留書」には二九軒と記され(資料近世1No.一一五〇)、「国日記」寛政元年(一七八九)五月十日条には、本町(ほんちょう)では減少して三軒になったとみえているが、存在していた全軒数はわからない。「文化二年八月改 弘前町中人別戸数諸工諸家業総括 全」(弘図岩)によれば、城下全体で一七軒知られる程度である。
城下の質屋は、生活の苦しさによる藩士の利用が多かったと推定されるが、両者間に問題が多く生じてくるのは天明期(一七八一~八九)以後であり、それは天明・天保の大凶作とも関係があろう。天明三年十一月の大目付触(おおめつけふれ)に、藩士がこの春に冬用の衣類を質入れしたが、まだそれを取り出しに来ることができないでいる。そのため彼らの支配頭(がしら)と三奉行(町奉行・寺社奉行・勘定奉行)の相談により、質入れした品物は本人に返却する。ただし、質屋に払うべき代金は来秋に給禄から差し引く、とみえている(「国日記」天明三年十一月三日条)。これによって、天明三年の大凶作の影響で質屋への借金返済に苦しむ藩士の救済方法の一端が知られる。
天明六年の御目付からの触は、藩士が質保管の期限が来ても取り出しに来ない。そのため質流れにしようとする質屋に対し、流れるのを阻止するために藩士は質屋を脅迫するな、というものである(同前天明六年五月十七日条)。期限切れは知っているが、借金を返済できずに苦しむ、特に下級藩士の姿が彷彿(ほうふつ)とする。
図105.御家中手当金借用証文
元禄八年(一六九五)の「質屋作法御定之事」に規定されているように、質保管の期限は衣類などが八ヵ月であるのに対し、刀・脇差・諸道具などは一二ヵ月が原則であった(資料近世2No.二〇四)。
文政十一年(一八二八)二月の三奉行からの申し出によれば、質入れした品は八ヵ月で質流れにされていたが(衣類などか)、それが内々に頼まれて期限が二〇ヵ月までに延期されていた。このままでは質屋の営業に差し支えるので、一三ヵ月の期限にしたいというもので、それが認められたのであった(「国日記」文政十一年二月十九日条)。
「国日記」天保五年(一八三四)六月五日条によれば、質保管の期限はこれまで一三ヵ月であったが、昨年の大凶作の影響により一八ヵ月に延ばしたところ、質入れする者ばかりで取り出す者がなく、質屋の営業に支障が出るようになった。そのため再び期限を一三ヵ月に戻すことにする。ただし、藩士の勤務にかかわる品(武具・衣類などか)は一八ヵ月の期限とする、とみえている。
二年後の「国日記」天保七年六月二日条では、期限はさらに延び、この年まで二〇ヵ月になっていたことが知られるが、また一三ヵ月に戻すことになった。ただし、藩士の勤務にかかわる品物は、質屋に届け出て手続きをすれば流れないように取り扱うという御目付触が出ており、二〇ヵ月の期限はまだ有効であった。
さらに、「国日記」天保八年三月二十九日条によれば、生活困窮に陥っている藩士および多くの人々が、質入れした勤務のための品や生活必需品に限り、あらかじめその質屋に申し出れば流さないが、それ以外は一三ヵ月が保管の期限であったことが知られる。これは前年の大凶作による彼らの生活を救済しようとする藩の対応であった。
藩士の救済と質屋の営業に支障を来さないよう両者を立てる方策はなかなか困難で、武具などの質流れを防ぐことは万全でなく、流れずとも質入れの状態では、本来の武士の気風が失われ、腰抜け侍になる者が多くなりつつあったのはやむをえなかったのである。