同年四月、新井・今泉両人は、紙業の振興を担当する郡奉行戸田左五兵衛・菊池四郎兵衛を同道して楮仕立ての適地検分のため、浪岡組内と西浜筋(現青森県西海岸地方)を廻郷した。検分が終わりしだい、村々に楮の植栽が下令された。
十一月、新井・今泉らが漉いた紙を藩主信政に献上した。紙名は次のとおりだが、数量はごくわずかである。
中杉(ちゅうすぎ)御鼻紙 仙台奉書 杉原(すいはら) 桑紙 半紙
十二月二十四日、新井・今泉両人は金二〇両七人扶持で召し置かれ、年頭御目見(おめみえ)を仰せ付けられた。紙漉頭喜兵衛が俵子四五俵・白川七右衛門が二〇俵二人扶持だったのに比べ破格の待遇である。製紙振興のため新参の紙漉技術者にかける期待の大きさをうかがうことができよう。
貞享四年(一六八七)、事業の本格化に伴い御国紙漉喜兵衛・七右衛門らが、新井・今泉の配下になり、紙漉一二人の陣容になった。同時に、岩木川西岸の大川(おおかわ)村・青女子(あおなご)村の大川袋・中袋・五郎袋の鳥屋林(とやばやし)三〇町歩を楮畑に開拓することになる。五月、新井・今泉は相次いで江戸・上方へ出張した。用件は楮作人を召し連れて来ること、農具・楮などを調達することであった。一〇人の作人を召し連れて下着、開発に当たらせることになる。今泉の弟彦兵衛も作人として三河西杉山から下って来た。
図132.紺屋町織座(紙漉所跡)
元禄元年(一六八八)、紙漉所で不要になった生皮大判二五〇帖・半紙五九丸を払い下げている(一帖二〇枚、一丸一万二〇〇〇枚)。相当の生産量があり、御用紙のほかに市中の需要を補っていた。紙漉の操業が順調に行われていたことがうかがわれる。元禄三年(一六八九)原ヶ平(はらがたい)の畑二六町歩をはじめ方々の村々に楮仕立てを命じるが、相変わらず楮が不足で、上方から六六〇貫の楮を買い求めている。
元禄四年(一六九一)、紺屋町末紙漉所は閉鎖され、紙漉頭新井・今泉は、同七年に職を解かれた。紙漉所跡は薬園になり、さらに藩営の織座町に変わって大川村の楮畑は桑畑になる。殖産興業の方針が野本道玄(のもとどうげん)主導で、養蚕・製糸・織物業に転換したのである。
紙漉所が閉鎖された理由について、紙漉町熊谷喜兵衛は享保四年(一七一九)次のように述べている。「先年新井・今泉と申す者召し置かれ、金二〇両七人扶持ずつ下し置かれ、手代六人…一ヶ年御扶持切米ばかりも大概一七〇両余の御物入り、楮も不足と申し出、上方より楮御買下しなされ候義も御座候て一〇ヶ年程も御座あるべく候や、紙漉き候所に過分物入り、費多く…」(「国日記」享保四年一月二十三日条)。元締兼大目付武田源左衛門(たけだげんざえもん)らによる藩の行財政改革の対象になったことを物語っている。