近世、津軽における漆工芸は、藩主導の中で諸条件が整備されるとともに、領外から新技法が導入されて定着し、さらに津軽独特の技を創造して今日に至っている。
津軽地方の漆工芸をみるとき、刀剣や甲胄の漆工技術を離れて考えることはできない。
『津軽塗』(青森県無形文化財調査報告書第一集 一九七六年 青森県教育委員会刊)によれば、御鞘師として貞享二年(一六八五)に抱えられていた大川善兵衛の祖父、弥七郎は、秋田出身の者であり、初代藩主津軽為信から知行を与えられたという。
また、貞享三年(一六八六)の「町支配知行取由緒書職」(前掲『津軽塗』)に塗師として岩崎明右衛門・野里村作左衛門・石神村九左衛門・青女子村(あおなごむら)専助・佐藤吉左衛門・池田源兵衛・清五郎のほか蒔絵師・六右衛門ら当時の職人の名があり、そのなかの塗師頭岩崎明右衛門の祖父は、山城国(現京都府南東郡)の出身で、寛永十一年(一六三四)に俸禄を得ている。また作左衛門の祖父は、江戸で陣笠作りを学び、さらに有名な具足師岩井与兵衛のところで修業を終え、寛永十二年(一六三五)に召し抱えられた。
このように、近世初期の津軽の漆工芸は、秋田の鞘師、京都の塗師、江戸の具足師の移入によって興ったもので、彼等は、主として武具、馬具の装飾、藩主の調度の製作、その他寺社の塗装を行い、漆工技法は、黒塗・朱塗に蒔絵を加飾する程度であったろう。
その後の城郭を中心にした城下の町割りを描いた慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)には、毎戸の屋敷割りがなされ、町人の箇所には職業名、取り扱い商品名なども書き込まれている。
職人についてみると、大工六三、鞘師一二、紺屋一四〇、たばこつくり三二など、約三〇種、四六〇軒ほどの居住者がいるが、塗師らの住んでいる家は見当たらない。しかし絵図には、四の郭(北の郭)に塗師場、作事場、普請場が描かれているので、この塗師場で岩崎明右衛門、作左衛門、九左衛門、専助らの祖父たちが働いていたのであろう。