江戸時代末期の建築

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蘭庭院(らんていいん)の栄螺堂(さざえどう)は、天保十年(一八三九)に、東長町の豪商であった中田屋嘉兵衛(かへえ)が海蔵寺(かいぞうじ)の境内に建てたものであった。当時はこのような栄螺堂が各地に建てられていたようであり、見せ物的な要素が強く表れて、面白い建造物として好まれる傾向があったようである。

図240.栄螺堂

 乳井神社(にゅういじんじゃ)の拝殿は、元来は本殿と拝殿とを兼ねた空間をもっていたが、近年、後方に新しい本殿が造られて、今は拝殿として使されている。内・外陣に分けられて厨子もあった。大規模で壮大な五間堂ではあるが、その建造は一九世紀の前半ころとみられ、簡素な造技術で建てられた。
 岩木山神社の社務所(しゃむしょ)は、百沢寺の本坊あるいは客殿とされていたもので、寛永六年(一六二九)に楼門とともに造られたが、その後火災などもあって、現在のものは弘化四年(一八四七)の建立である。社務所となってから若干の改造を受けてはいるが、大きな入母屋造茅葺屋根の景観は圧巻であり、山形県の立石寺本坊や岩手県の中尊寺本坊などと並ぶものである。

図241.岩木山神社社務所

 以上にみてきたように、慶長から寛永期にかけては、越前(福井県)・丹波(京都府)から伊賀(三重県)・伊勢(三重県)・近江(滋賀県)・和泉(大阪府)・山城(京都府)や出羽(山形・秋田県)に至る各地から、多くの技術者を招聘(しょうへい)して、藩に必要な多数の寺社建築の工事に当たらせたのであった。しかしそのような時勢にあっても、津軽弘前藩においては、地元の技術者にも仕事をさせていたことを、弘前八幡宮の本殿や東照宮の本殿などにみることができる。そこでは建造物の種類による建築形式の取り方や、木割(きわり)の基本や釘・鎹(かすがい)といった金物の作り方などについて、先進地から来ていた多くの技術者たちから学んだはずであり、それが後世に生かされたのであった。
 地元の技術者が担当した成果は最勝院の五重塔に表れており、工事が著しく遅れた理由の一つに挙げられるかもしれない。その後、袋宮寺の本堂や久祥院殿の位牌堂の建立の際にもその技法は使われ、高照神社の各建築へと伝えられていった。そして誓願寺の山門、津軽家霊屋凌雲台でも地元の技術は生かされたと考えられる。