明治十四年十月二日、本多庸一は野呂源太辞任による中津軽郡県会議員に当選した。いよいよ自由民権派が政治権力の中枢に登場して来たので、県政界は緊張の極みに達した。中央では十月十二日に国会開設の詔が出され、全国の自由民権派が躍進し、政党結成の気運が盛り上がっていた。しかし、青森県では、県庁開設以来官途に就いたのは藩の経歴が物を言って保守派のみで、区長、戸長、郡長みな保守派が絶対多数だった。
だが、本多は、保守との対決や派閥争いを避けることに腐心した。まず、保守派の代表で県会議長だった大道寺繁禎に合同団結を申し入れた。山田秀典(ひでのり)県令も積極的に動いた。お雇いフランス人ボアソナードに法律を学んだ共同会員館山漸之進を東津軽郡長に登用した。明治十四年十月二十八日、県政を動かす弘前士族の指導者たちが、山田秀典県令の呼びかけで郷田兼徳(ごうだかねのり)書記官宅へ参集した。集まった顔ぶれは、県会議長大道寺繁禎、郡長は東郡館山漸之進、中郡笹森儀助、北郡工藤行幹(ゆきもと)、下北郡一町田大江、西郡蒲田昌清、県会議員赤石行三、同本多庸一、共同会員菊池九郎、同石岡周右衛門、県属菊池元衛、同伊藤珍英(千葉の人)である。山田県令は会合の趣旨を説明し、国会開設の詔が出され、国政の方向が定まったから、青森県も衰頽(すいたい)を挽回して将来の進歩を図らねばならないが、それには弘前の有志が団結して県下に呼びかけなければならないと説き、郷田書記官も同趣旨を重ね、会合した全員が納得し、翌日全員発起人となった。
しかし、この青森県発展への妙手の山田案は、キリスト教を憎み、自由民権に反対する固陋(ころう)の弘前士族によって砕かれた。それは翌十一月中旬の笹森郡長の山田県令批判をこめた辞職と、それに次ぐ大道寺議長の辞職と出京から始まった。いわゆる弘前の紛紜(ふんうん)である。