弘前市経済改善への提言

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明治十三年(一八八〇)一月十七日付で、弘前の商人である今村要太郎藤田半左衛門竹内和吉の三人は連名で『市街 景況上申』なる文書を作成し、佐々木高行に提出して政策提言を行った。この文書により、この時期の都市住民である商人の意見を見、町の経済状態とその改善策を見てゆきたい。

写真23 「市街景況上申」を所収する『景況調』

 まず、提言は次の文言で始まっている。
 私共
昨夜
拝謁仰付ラレ何トモ感激ノ至ニ奉存候、然処其節申上候箇条々々猶大目許モ書取ノ上、可差上旨仰出サレ、因テ誠以不文字ノ義ニ候得共、左條ニ記シ奉入御覧候間、宜ク御推読被仰付度奉願候
(前掲『景況調』四)

 次いで弘前について、以下のように述べている。
津軽五郡東西中南北ノ儀ハ皇国東北ノ僻地ニシテ、人民ニ於ケル因脩(いんしゅう)姑息ニテ、未タ開明ノ域ニ進ムモノ鮮(すく)ナク、啻(ただ)ニ旧慣ヲ慕ヒ、実ニ頑固云フヘキナシ、然ルニ当弘前町ノ義ハ、二百六十余年間ノ旧城下ニテ、津軽五郡ノ亀鑑ニナルヘキ土地ニシテ、従来在浦々ニ於テハ、善悪共ニ弘前町ノ風儀ヲ模範トスルハ論ヲ竢(ま)タス、然ニ其亀鑑トナルヘキ弘前町不開化ニテハ、何レノ時カ郡中一般開明ニ赴クコトヲ得ンヤ、依テ弘前町ヲ第一ニ開明可致方法ヲ設ル時ハ、漸次進歩ニ随ヒ、五郡中ヘ波及シ、知ラス識ラス開明ニ赴ク可キハ是又論ヲ俟(また)サルナリ、其進歩ノ方法タルヤ県庁ヲ弘前ニ置キ、其他中学、師範、医学等ノ本校ヲ移シ、然シテ其官吏タル他ノ府県ヨリモ官撰シテ、当県人民ヨリ官撰人ト同一ニ其事務ヲ掌シムヘシ、左スレハ人民ニ於テハ、官吏ノ風儀ヲ見習フ時ハ不言シテ自然進歩スルハ明鏡白日ノ如シ、因テ県庁及中学、師範、医学校等ノ本校ヲ移サンコト開明進歩ノ一大眼目ナレハ、士民ニ於テ最以テ希望スル所ナリ
県庁ヲ移転スヘキノ方法ハ其時宜ニ応シテ議定スヘケレハ、今之ヲ論セス
(同前)

 弘前の繁栄が津軽五郡の繁栄につながるというのである。このため、県庁、医学校師範学校を弘前ヘ移転すべきことを主張している。特に医学校の弘前移転については次のように述べている。
医学校ハ、明治九年県会ニ於テ当弘前ニ設立ノ義決議ニ及、既ニ開校ノ処、何等ノ訳ナルヤ一昨十一年冬右校青森ヘ移セリ、抑医学校タルヤ医術ヲ研究スル原因ニシテ一日モ欠可カラサルハ論ヲ俟タス、当弘前町ノ儀ハ人家稠密ニシテ、士民数万、而シテ士族二千五百余戸ニシテ、其子弟次三男夥多ナリ、其士族ノ子弟次三男タルモノ大凡智徳ハ平民ノ上ニアリテ、学力アルモノマ々アリ、然シテ年齢十四五歳ヨリ乃至二十歳ノモノ多ク、此等或ハ農商ニセントスルモ資本ナク、上国ニ留学スルハ更ナリ、青森医学校ダニ入ルコトアタハス、此等ハ弘前ニ医学校ノアルトキハ居ナカラニシテ入校スルヲ得ルニ易シ、旦又弘前ニハ医員多クシテ、其校モ漸次盛大ニ至ルハ勿論、又洋薬ヲ服用スル人民モ必ス増加スルコトハ喋々論スルニ及ハス、左スレハ官ニ於テハ御手数ヲ省キテ、又人民ニ於テハ甚タ便益ヲ得テ辱ナク、実ニ一挙両得ト云フヘキナリ、因テ医学校ヲ是非当町ヘ移校ノコトヲ望ム処ナリ
(同前)

 士族の子弟の就学の機会確保のためにも医学校の弘前移転が必要だというのである。次に学校教育の充実の必要性を述べている。学校は有用なものであるが、その維持費に苦しみ、なかには廃校論まで述べる者もいるという。具体的な提案としては、小学校維持法はこれまで連合会議に付され、経費の支出が求められていたが、これを県会に付すこととし、地方税を財源として小学校の維持を図るべきだという。
 次いで提言は、郡役所の合併、すなわち郡の統合を望んでいる。その内容は次のとおりである。
弘前町追々衰微ニ赴キ、目今ニ至、米価及諸物価沸騰ニテ、市街人民ニ於テ必至困却セリ、然リト雖トモ物価ニ昂低ハ天下自然ノ形勢、人力ノ不及処ナリ、就中米価意外ノ騰貴ニテ困難トハ雖トモ、米ハ津軽郡第一ノ産物ニシテ、高価ニテ他府県ヘ輸出スルトキハ国富饒ニ至ルヘキコトニテ、実ニ慶スヘキ処ナリ、然リト雖トモ其金員啻(ただ)ニ農家ノ蓄積トナリテ容易ニ融通スルコトヲ得ス、夫レカ為ニ弘前町細民ニ於テ困却スルナリ、加之地方税中戸数割并町内協議費ノ出金相嵩シ、目今容易ナラサル場合ニ至レリ、因テ互救ノ方法ヲ設ケ、細民ヲ救ハサルヘカラス、然シテ今之ヲ設ケントスルニ、俄カニ其金額ヲ産出セシメテ細民ノ窮困ヲ匡救スヘキナケレハ、先即今ノ急務タル其見込ヲ陳述セハ、地方税ヲ節減スヘキ本源ノ道ヲ求メスンハアルヘカラス、斯テ其方法タルヤ、東津軽郡ヘ北郡ノ内ヲ若干村ヲ併セ、中津軽郡ヘ南津軽郡ヲ併セ、北津軽郡ヘ西津軽郡ヲ併セ、三戸郡ノ内若干村ヲ併セテ、郡役所ヲ東津軽郡、中津軽、北津軽郡、三戸郡四ヶ所ヘ置クヘシ、然ルトキハ八ヶ所ノ役所ハ四ヶ処トナル、就テハ地方税ノ節減トナリテ、人民ニ於テ必ス戸数割ノ幾分カ節減トナレハ、先之ヲ以テ方法ヲ設ケテ、中等以上ノ人民ノ是迄収メシ処ノ幾分カ減少シタルモノヲ積立テ、之ヲ以テ細民ヲ匡救スヘキモノトスヘキナリ、因テ郡役所合併ノ儀ヲ冀望ス
(同前)

 右に見るように、この提言は、郡の配置を変更させ、都市部と農村部を統合することによって、地方税の負担を加減し、細民の救済を可能にしようとするものである。これは、インフレーションの悪影響を受けている都市部の細民の利害を代弁しているのである。
 次に提言は、営業税の卸売商と小売商の税額について不満を述べ、また、それを決定する県会議員の選挙方法を改正すべきことを指摘している。その文言は次のとおりである。
 地方税中営業税并議員撰挙法ノ件
営業税金、是迄卸売商金拾五円以内、小売商金五円以内ノ御規則ナレト、小業者ニ於テハ至当ト雖、大業者ニ於テハ最モ軽シ、因テ左ニ
卸売商営業税金三拾円以内
 但三拾円ヨリ多カラス三円ヨリ少カラス
小売商営業税金五円以内
 但五円ヨリ多カラス三拾銭ヨリ少カラス
  卸小売商共数業兼業ノ分ハ、其重立タル一業ニ課シ、兼業ニハ課セサルモノトス
右等級ノ方法ヲ定ムルヤ、県会ニ於テ商業高ニ応シ之ヲ定ムルモノトス、該議員タルヤ、地租金拾円徴収セサレハ被撰人ヲ得サル御制規ナレトモ、金拾円以上収ムルモノハ、当県下市街平民ニ於テハ僅少ニシテ、啻ニ農家其ノ被撰人ニ帰スルカ如ク、商人ニ於テハ実ニ稀ナル処ナリ、夫カ為、営業税差等ノ分ハ其識ニアラサルナレハ、如何トモスヘキ方法ヲ知サルカ如シト思フ処ナリ、因テ是迄ノ議員撰挙法ヲ更正シテ、地租金五分ノ一ノ地方税ヲ収ムル者ハ、撰挙人并被撰人タルヲ得ヘキモノニ御改正ヲ乞フ、如此方法ヲ設クルトキハ、其決極戸数割減少スルナレハ、夫カ為無営業者ノ族ニ於テハ、其課出ノ幾分カヲ免ルコトヲ得ル、斯テ其地方税ノ全額ニ於テハ、更ニ減スルコトナキナリ、因テ改正アランコトヲ希望スル処ナリ
(同前)

 この提言は、卸売業者の増税について述べている。また、県会の議員選挙についての規定は、明治十一年(一八七八)制定の府県会規則により定められているもので、全国一律であった。提言はその改正を求めているのである。被選挙人の資格である地租金一〇円以上納入は、市街地の商人には容易に達しえないものなので、地租金の五分の一の地方税を納めている者に選挙権被選挙権を与えるべきだというのである。
 次いで、提言は、貯穀方法について述べている。これは、旧弘前藩にあった制度を復活させ、県の許可を得て規則を整備しようとするものである。その内容は次のとおりである。
夫レ貯穀タルヤ、吾弘前藩ニハ一般ノ方法古来完備シテ施行ノ処、廃藩ト共ニ敗レ、其後又制規ヲ立ラレタレトモ、近来其方法モ怠リタルハ、実ニ歎息ノ至リナリ、因テ向後貯穀ノ法ヲ設クルト雖トモ、人民協議ノ上ニテ賦課スルトキハ、納期ニ臨ミ未納者モ鮮シトセス、因テ町会ヲ開キ、該規則ヲ編集シ、郡役所ヲ経、県庁ヘ保護ノ儀ヲ上申スルトキハ、県庁ニテ即許可セラレテ、貯穀犯則ノモノハ相当ノ御処分有之様切ニ冀望ス
但貯穀規則ノ儀ハ追テ町会決議ノ末ニ、県庁ヘ上申スルモノトス
(同前)

 各町協議費についても、提言は触れている。その未納者への対応が問題なのである。提言はこれに対し、公売法を設けることを求めている。すなわち、財産の競売である。その内容は次のとおりである。
県会ニテ決議ノ経費金各郡ニ賦課シ、各郡割当リノ金額ヲ、更ニ各郡聯合会適宜ノ乗率ヲ定メ、之ヲ各町村ニ賦課シ、其町村ニ於テハ、県会并町村聯合会ニ於テ割当リタル金額并該町ノ経費予算ヲ立、之ヲ合算シ、更ニ乗率ノ方法ヲ設ケ賦課スト雖トモ、県会ニ於テ決議ノ科目、金額ノ内、未納者アルノ際、公売法アリト雖、聯合会并町村会ニ於テ決議ノ科目中未納者有之トモ公売法無之、裁判所ヘ戸長ヨリ訴出ル権ヲ有スト雖トモ、其事実ニ難シ、因テ町村聯合会并町村会議場ニ於テ決定賦課ノ金員未納者之トキハ、地方税同一ノ公売法ヲ設ケラレンコトヲ望ム処ナリ
(同前)

 また、実際の商業にかかわる点について、煙草販売の際に煙草印紙を貼付しなければならなかったが、これを小売段階での貼付から、製造元での貼付に変えるよう求めている。
煙草印紙ハ壱厘、五厘、壱銭、五銭、拾銭ノ数種ナレハ、該御規則ヲ遵守スルハ論ヲ俟タスト雖、小商人ニ於テハ不了解モ計リカタケレハ、其製造元ニ於テ玉毎ニ印紙貼用スルコトヲ望ム処ナリ
(同前)

最後に提言は、外国との条約改正に触れ、貿易と金融不安につき、改善策を実施するよう要望している。
東奥僻地居住ノ私共ナレハ、各国ト交易ノ原因確乎タル説ハ固ヨリ知スト雖、倩(つらつら)新聞誌等ヲ閲スルニ、論説紛々タレトモ、先東京商法会議処及大坂商法会議処建議并諸新聞誌ノ論説等ノ如ク、輸出入物品ノ当ヲ得サルカ為メ、夥多ノ金銀貨輸出スルニ随ヒ、自然紙幣ノ価額ヲ減少スル勢ヒニテ、実ニ長大息ノ至リナリ、因テ国適宜ノ法則ヲ設ケ、断然迅速御改正アラセ玉ハンコトヲ、謹テ渇望スル処ナリ
(同前)

 この提言が提出された明治十三年(一八八〇)は、西南戦争後のインフレーションのピークの時期であり、周辺農村の繁栄と、弘前市内での窮民の存在が背景にあった。府県会規則、郡町村編制法、地方税規則三新法が明治十一年(一八七八)に成立した後の、弘前の町の経済状態と三新法改正要求の存在が提言からわかる