郡制の施行

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明治二十四年四月一日から郡制が県下に施行された。郡制と府県制の施行は青森県が全国で最も早かった。郡会は町村から一人と大地主(地価一万円以上の所有地ある者)で構成、大地主定数は郡会の三分の一だった。議長には官選の郡長がなり、名誉職だった。中津軽郡会議員の選挙は五月七日行われた。選挙は村会議員によって行われるが、被選挙権は村議選挙の有権者にあった。
 第一回の中津軽郡会議員(定員一六人)
駒越村  石郷岡文吉   堀越村  葛西穏
和徳村  川村譲     高杉村  木村壽鑑
裾野村  小山平吉    豊田村  木村良一
千年村  相馬豊五郎   東目屋村 今井一徹
船沢村  成谷亀之助   清水村  三浦大吉
新和村  野呂源太    藤代村  未詳
 大地主互選議員
笹森清次郎 加藤長幸 小山内雄蔵 高杉金作 岩谷吉太郎

 なお、このプロイセン(ドイツ)をまねた郡制は、工藤行幹代議士が議会で質問しているように施行の初めから問題点を含んでおり、結局明治三十二年(一八九九)、大地主制と複選法を廃し、選挙権国税三円以上の公民に与えられた。また、郡長の任用が府県知事に委されていたものが試験制度になり、従来の工藤行幹笹森儀助杉山龍江らの有力者郡長から官僚的郡長に代わった。土地人情も分からず、言葉も通じない、郡民との親近性もない赴任官僚が一般化していく。
 郡制改正実施後の第一回選挙は明治三十二年九月十五日に実施され、中郡の当選者は次のとおりである。
藤代村 小山左七  新和村 大高喜八郎  船沢村 高谷貞助  高杉村 外崎平八
岩木村 太田惣六  相馬村 沢田藤太郎  大浦村 前田俊蔵  駒越村 小杉左吉
東目屋村 竹内藤太郎  西目屋村 斎藤弘民(以上一〇人憲政本党)
堀越村 工藤長左衛門  和徳村 福士音太郎  裾野村 須藤信夫  千年村 佐藤義雄
豊田村 福士健夫(以上五人憲政党)
清水村 今八太郎(中立)  総員一六人

 郡制は、やがて機能が府県、町村または他の分化した行政機関に吸収され、無用の長物化し、廃止問題がたびたび起きた。時勢の進展であった。
 しかし、山県有朋系の藩閥官僚勢力は、自分たちの勢力の弱体化を恐れ、貴族院を中心に反対し、また、政党の側も政友会の内務省支配を危ぶむ進歩党大同派の反対があり、制度自体の得失を超えて政治的に紛糾した。結局、郡制大正十年(一九二二)まで、郡役所は同十五年まで存続した。