(一)北洋の出稼ぎ農民たち

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 本県における大正・昭和の労働運動指導者で、最も広く大衆に愛された人物に黒石出身の柴田久次郎がいる。明治三十四年生まれの柴田は、黒石尋常高等小学校を卒業後、北洋漁業における悲惨な労働状況を体験して社会主義に目覚め、大正時代から農民運動消費組合運動を指導、労農党社会党共産党で活躍して、戦後県議を一期務め、また、新聞記者や文学活動でも広く知られた。さらに、新内ぶしの岡本文弥と戦前・戦後を通しての長い交誼(ぎ)を続け、秋田雨雀記念館を建てるなど、人間的に多くのファンを持っていた。彼は、その著『わが人生ノートから ゆりくれない』(昭和六十三年、黒石市津軽新報社)に社会主義に入るきっかけを次のように書いている。
 大正七年春 高等小学校を卒業したばかり、十六歳の少年柴久が、毎朝前(まえ)町の自宅から元(もと)町の福士の家まで通勤した。広い道路を掃いてから台所で朝飯をいたゞく。初代永一郎の奥さんは、なかなかおっかないおばあさんで、座敷の仏壇の前でながながとお経をあげ、うちわ太鼓を叩くのが日課であった。
 正月になれば、家の前の小店の柱に、西の内に筆太に書かれた漁場の家印がヒラめいて、近郷近在の貧農たちが、春の鰊場、夏の鱒、秋の鮭の場所に身売りをする話合いをしに帳場に立ち寄ると、年寄りの船頭や親方が応待して前金を決める。話がまとまると、何がしかの手金を受取って、帰りには居酒屋で一パイやり、いい機嫌で帰宅することになるのだが、その後金渡しに手金を渡した百姓の家を訪ねて契約書をつくり、前金を渡してくる。その見習い役が柴久少年の毎日の仕事であった。
 出稼ぎ者本人の家の模様を見、保証人の家の庭に稲乳穂(にお)が積んでいるようならば大丈夫前金を渡しても安心だなと、教わった。またゴム長靴などは旦那衆でなければはかぬ時代で、毎日わらじがけで近在を通った。翌大正八年の春にはカムチャツカの缶詰工場に出稼ぎする同年輩の少年労働者三百人の小頭見習いという役で漁場に出かけ、沖合に日本の駆逐艇を停泊させて略奪漁業の実際を見て、やがて社会主義運動に入ることになる。まさに小林多喜二の「蟹工船」の体験であった。

 昭和三年(一九二八)九月十日、長崎に本店を有し、青森に支店のある株式会社林兼商店のカムチャツカ漁場から帰還した漁夫四〇〇人のうち、製造工場従業員一九九人は漁場における労働過酷及び時間外労働に対する賃金追い払いを要求、青森一般労働組合の応援を得て林兼支店で小和田工場長と面談したが、会社は要求に応ぜず、警察も労働者側の指導者を検束拘留、結局青森警察署長の調停で旅費三円の支給を受けて争議団を解散、労働者側の惨敗となった。
 その教訓で、日本漁業労働組合は、組合加盟を勧めるチラシ「極北に船出する漁夫雑夫諸君」を函館港中心に撒いた。チラシの文章は、労働組合というものがどんなものか分からない漁夫たちに、その必要性と要求項目を掲げる心打つものである。
 極北に船出する漁夫雑夫諸君
兄弟達!吾々はもうやがて咲くであろう北国特有の美しい花すら見る事が出来ずに、荒浪狂ふ極寒の北洋へ船出しなければならぬ。懐しい故郷の土を踏むことが出来るのは今から半年も先の事だ。
幸いにも俺達の肉体は去年この過労に耐へた、そして今年も亦生活の為に此の過労を求め行かねばならぬ、一昨年もそうだった、来年もそうだろう、三年、五年、七年ハチ切れそうに盛り上った俺達の筋肉は年毎に萎びてくる、子供も殖へた、父母も老いた、一家の生活の為に俺達は力の限り働き続けた。
だが!!だが!! 俺達の生活は少しでも楽になっただらうか、俺達のこの体は何時迄も「力の限り働き」得る体であらうか。
北の海には資本家の懐中を肥やす魚の大群と、吾々を病?死?の深淵に導かずにはおかない昼夜ブッ通しの苛酷な労働とが待っている。
俺達の生活が楽にならないのはその「儲け」を無茶苦茶に取られてゐることを知る。どうしたらこの不合理を除き得るか。
それはお互いにシッカリと手を握る事だ、団結だ!労働組合を作る事だ。(中略)労働組合がどんなものか分らない人は君の乗ってゐる船の下級船員に聞いてくれ、その人は必ず日本で有数な海員組合の組合員であって、君に対して丁寧に教えてくれるだろう。
サァ兄弟ッ!手を出せ!
この手をしっかり握れ!
労働組合へ入れ!

 そして、主張として賃金増、労働時間短縮、歩増、医療体制完備、宿舎改善、傷病・退職・死亡手当制度確立、悪質周旋屋による雇傭制の反対などを掲げた。しかし、本県の出稼ぎ者は組織化されなかった。もっとも、大正十二年(一九二三)四月末から一二〇人の津軽の出稼ぎ農民とカムチャツカで生活して「津軽農民懇談会」なる組織をつくり、待遇改善を要求した大沢久明(本名・喜代一)のような例もある。彼と唐牛僚太郎の指導で農民は船底で革命歌を歌った。「♪あゝ立て君よ革命は 我らの前に近づきぬ 農夫はくわを持って立て きこりはオノをとって立て あゝ革命は近づけり♪」それまではソーラン節などの替え歌の春歌などを歌っていた農民の急激な変貌である。鬼の棒頭たちは酔いも覚め目をギラギラさせながら船倉の入口に立った。しかし、カムチャツカへ上陸して一ヵ月、津軽農民懇談会の、一、風呂をつくれ、一、食事に野菜をつけよ、一、労働者に手をかけるな、一、一週一回焼酎と菓子を出せ、一、病人の公休を認めよ、などの要求を容れて待遇改善するという六月一日、大沢は警察によってカムチャツカ退去を命ぜられ、函館水上署に送られた。津軽農民懇談会は解体された。
 北漁出稼ぎの賃金は異動があるが、明治十九年は五ヵ月間で熟練者二五円、新入りは一〇円前後、弘前地方からは一万三、四千人が出稼ぎに行った。米価一石五円のころである。日露戦争直後の明治三十八年十二月の新聞記事では、礼文島の賃金は一人二七円から三十二、三円とあり、弘前地方から二〇〇人が契約した。明治四十年一月十二日付の『東奥日報』には次の記事がある。
 弘前市民北海道漁場行 北海道及びサガレン島、樺太等漁場出稼の漁夫募集に就いては弘前市本町三上新太郎及び一番町桜庭百太郎の両名例年の通り各々請負業を開始し専ら出稼人に便宜を与ふるようつとめつゝありしも、去る十日までに弘前市役所へ出稼証明書下付出願せる者僅かに六十七、八名にて其賃金最高四十二円、最低十六円なりと。

 本県の出稼ぎ漁夫数は、昭和五年までは例年三万人を越していた。このうち、蟹工船を含むロシア領へは三分の一が出かけ、期間中の収入は、北海道、樺太が一人約七〇円に対し、ロシア領は三〇〇円だった。カムチャツカ蟹工船は高収入の代わり、労働が過酷だった。しかし、引き続く不況や漁場管理の合理化で、漁夫の募集人員は三分の二に激減し、賃金も二〇%引き下げとなった。昭和五年は漁夫数二万二〇〇人、六年は一万五〇〇〇人と半減、収入も一八七万円から一一五万円と大幅減少で、凶作地帯の生活窮乏を一層深刻ならしめた。昭和七年の弘前市からの出稼ぎ漁夫は七二五人で、北海道二二七人、樺太三三六人、ロシア領一六二人である。

写真146 北海道出稼人請負所
(「青森県弘前市実地明細図」明治26年)