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(七九)武野紹鷗

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 武野紹鷗名は仲材、幼名は吉野松菊丸、通稱は新五郞、(泉州龍山二師遺藁大林和尚塔銘幷序裏書、紹鷗位牌、)文龜二年大和の奈良に生れ、後堺に移り、舳松町に住した。享祿三年九月從五位下因幡守に敍任せられた。【家系】(武野家系圖、泉州龍山二師遺藁、茶人系傳全集)武田信光の後裔で、祖父仲清は應仁の亂に戰死し、父信久新五郞と稱し、法號を乘信禪定門といふ。 泉州龍山二師遺藁)孤兒となつて、四方に流浪し、竟に堺に永住した。(泉州堺南大小路今井氏系圖)紹鷗唯一人の男子として父の鍾愛を享け、其家名流たるを想ひ、自ら姓を武野と改めた。其時の和歌に「たねまきておなしたけたの末なれとあれてそ今は野となりにける」と。(堺鑑下)二十四歳、上洛して和歌を三條西實隆に學び、(堺鑑下、茶人系傳全集)四條夷堂の側に居り、夷大黑は並びものなりとて、【大黑庵】自筆の額を揭げて大黑庵と稱し、享祿四年正月三十歳剃髮して紹鷗一閑居士と號した。(州府志卷八、堺鑑下、茶人系傳全集、武野家系圖)其雅號は演雅の詩に「江南水色碧於天、中有白鷗閑似我。」とある句意を採つたのである。其頃五條松原に、珠光の門弟宗陳、宗悟といふ數寄者があつた。紹鷗茶湯を此二居士に學び、(茶人系傳全集、堺鑑下)傍ら紫野の古嶽和尚に參禪した。(泉州龍山二師遺藁)一日實隆の和歌大槪序の講説を聞いて深く感ずるところあり、【茶湯に親しむ】遂に專ら茶湯に親しみ、(山上宗二記)歸堺の後は北向道陳集雲菴岐翁等と相來往して、共に風懷を遣つた。(南坊錄、堺鑑下)【大林に參禪】又南宗寺大林和尚に參禪し、(泉州龍山二師遺藁)天文十八年八月一閑の道號を授與された。(大林和尚筆一閑道號)今開口神社瑞祥閣の東傍に傳へて紹鷗の茶室と稱するものがあり、又大阪市の南郊住吉天下茶屋の南に紹鷗と稱するところがある。紹鷗頗る此附近の林泉を愛好し、鬱蒼たる林間に茶室を營み、堺と相往來して、閑寂の風雅を味はつた地であると傳へられて居る。(住吉名所圖會卷之一)

第二十二圖版 武野紹鷗書狀

 
 
 弘治元年十月二十九日享年五十四歳を以て歿した。(大林和尚塔銘幷序裏書、武德編年集成卷三、武野家系圖)或は云ふ、永祿元年十月二十九日と(紹鷗位牌)法號を大黑庵一閑紹鷗居士といふ。(茶人系傳全集)【畫像贊】大林宗套の畫像偈贊に、「曾結彌陀無碍因、宗門更轉活機輪、料知茶味同禪味、吸盡松風未塵。」と、誌されてゐる。(一閑紹鷗居士畫像贊)堺向泉寺に葬り、碑前に石燈籠を置いた(紹鷗傳來道具譯書留寫、桃青寺過去帳、數寄者名匠集)【南宗寺紹鷗塔】今南宗寺に其供養塔のあるのは紹鷗が同寺の外護者たるの關係によるものであらう。瀧澤馬琴の羇族漫錄に、當時鑰代として、錢百文を寺僧に與へると、則ち彼墓の參拜を許したが、傳へて諸人墓前に向ひ、或は耳朶を墓に當てると、土中自から點茶の音があるといふが、是は墓の後に凹むだところがあつて、それへ自然と風の吹入るゝ故であると見えて居る。
 【紹鷗の女】紹鷗に一人の女があつた。之を吉井藤左衞門入道了信に嫁がしめた際、銘宇起州の火筋を婿引手として贈つた。織田信長丹羽長秀を使者として、一覽するよしの命を傳へしめ、後之を返還したが、北野大茶湯に、利休此ことを秀吉に告げ、命により、了信自ら此火筋を携へて、秀吉の一覽に供した。(攝津名所圖會大成(浪速叢書第七輯所收))
 紹鷗の塔は、今井宗久が其二十五囘忌に當る、天正七年六月、玉仲宗琇の銘文を得、【記念塔】記念の爲めに堺鹽穴常樂寺に建てたものであるが、(玉仲遺文)後堺の富豪難波屋某懇望して之を自己の庭内に移したのを、織田長益大阪を去つて、京都の東山に隱栖の際、難波屋に交涉して、之を建仁寺の塔頭正傳院に移した。大正五年男爵藤田平太郞氏の買收するところとなり、(堺市史蹟志料)今は、大阪市北區東野田町二丁目藤田德次郞氏邸内に建てられて居る。
 【門下の逸材】紹鷗の門下中堺人としては、津田宗達今井宗久、藥師院、辻玄哉椋宗理山本助五郞石橋良叱太子屋宗高小西道純(市之町人)小嶋屋道察鹽屋宗悅網干屋道琳(大町人)草部屋宗悅、石津屋宗嬰(大町人)伊勢屋宗滴淡路屋宗和(寺地町人)萬代屋宗味、三二等が聞えてゐる。(茶事談、茶人大系譜、茶家好古集覽、茶人系傳全集、數寄者名匠集)

第二十三圖版 武野紹鷗供養塔