文化三年九月に、カラフトを襲撃したロシア船は、翌四年四月にはエトロフを襲撃、ついで五月から六月にかけて西蝦夷地リシリ島をも襲撃し、商船を拿捕したり積荷を略奪するなど「乱暴」を働いた。
このため、同年六月幕府は、前年来の対策として目付遠山金四郎景晋、さらに若年寄堀田摂津守正敦らに蝦夷地出張を命じた。八月二日堀田正敦は、東西蝦夷地を二手に分けて見回る命を下し、近藤重蔵らは西蝦夷地の見回りを行うこととなった。
近藤重蔵ら西蝦夷地見回りの一行は、八月七日箱館を出立した。箱館より途中松前、熊石、オタルナイ等を経てイシカリに到着したのは九月一日であった。
イシカリは、ちょうど秋味漁の最盛期で、一〇〇里余の間のアイヌが大勢集まり、川口や川中に網を立てて漁をし、廻船も輻輳し大変賑やかであった。イシカリ滞在は一日だけであったが、近藤重蔵は同行の田草川伝次郎、山田忠兵衛と連名で、九月一日付で用状を福山の遠山景晋宛に出している。『近藤重蔵遺書』(近藤重蔵蝦夷地関係史料二)にその草稿があるが、その内容には熊石よりイシカリにいたる間気付いた点をおおよそ次のように記している。
①西蝦夷地は、東蝦夷地に比較してよほど良いように見受けられ、和人が松前辺から漁事のために大勢出稼に入って来るようになったためか、アイヌも人馴れしているように見受けられる。
②西蝦夷地は、船路不自由のうえ陸路もないところが少なくなく、急用の際には不便である。昨年以来見分したとおり、西地スッツより東地オシャマンベへの間道二日路および西地イワナイよりヨイチへの間道二日路を開いたならば、東地ユウフツより西地イシカリへ出る道筋よりも一、二日も近く便利なので、間道を開くことが先務である。
③オコシリ島(オクシリ島)は、異国船往来の海路にもあたるので、夏中同所詰のもので異国船注進の場合は手当を下されたい。
④タカシマ、オタルナイ、ヨイチの三カ所は、熊石村以北イシカリまでの間で地理、形勢ともにすぐれている。ことにタカシマは、四季とも海が荒れることもなく、廻船の冬囲の場所でもあり、イシカリ、マシケ等奥地へ行く船の日和待の場所になっている。今後、ソウヤ辺そのほかへ警固の人数を派遣する場合、タカシマ、オタルナイを中途の屯所とするが良いであろう。潟泊は、タカシマが第一である。
⑤イシカリは、蝦夷地第一の大河で、川上枝川東西惣蝦夷地へ連なって、川上にはアイヌも所々に住んでいて、河口には運上屋が一三カ所あって、松前藩の勤番所もある。当時、秋味漁の最盛期で、川中川口とも網数統を立て、アイヌがおよそ一〇〇〇人も集まって、川中へは廻船が一四、五艘も入り、陸には秋味小屋が一四、五カ所も立並び、秋味漁の季節は、蝦夷地中でもっとも賑やかなところである。現在のところ、秋味漁の時に川上からもアイヌが集まったり、鯡漁(にしんりょう)の時にタカシマ、オタルナイ方面へ出かけて行ったりするが、今後川上も開かれれば、「蝦夷地第一之守護所」になるであろう。さしあたり、タカシマの屯所より秋味漁の季節のみイシカリに警備に出張するがよいであろう。
このように、東西をつなぐ間道開設、異国船の注進、タカシマ、オタルナイ屯所、イシカリ場所の立地(秋味漁・守護所候補地)等に関心が向けられている。しかし、「石狩之儀ハ尚得と勘考之上追て可申上候」と、結論は留保している。