江戸時代から養蚕が盛んだったあきしまは、明治になって生糸の需要が増大すると「養蚕の村」と呼ばれるほどになります。また、大正から昭和のはじめにかけて、自然の景観がよい多摩川流域に別荘が造られるようになり、拝島にも財閥や宮家の別荘が建ちました。昭島市域に鉄道が開設されたのもこの時期です。生糸は青梅線から横浜港へ運ばれ海外に輸出され、多摩川の上質な砂利は五日市線で都市部へと運ばれていきました。
やがて昭和の恐慌をさかいに、桑畑が広がる村は一転、軍需産業都市へと変貌していきます。
あきしまの“近代の記憶”、その光と影をたどります。
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近代
あきしまの産業発展と人びとの生活 昭島の養蚕業
近代のあきしまの発展を支えたのは、やがて東京一となる養蚕業。生糸は鉄道で横浜へ運ばれ、海外へ輸出されました。また、明治の学制施行により学校が設置され、あきしまの子どもたちに教育が広がっていきます。やがて、戦争の時代に入ると、航空機工場ができ、あきしまは軍需産業とともに発展を遂げていきます。
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近代
映像
昭和飛行機のプロペラ
昭和12年、航空機製造会社(昭和飛行機工業株式会社)が昭島に工場を設立しました。当時の軍需産業の成長と拡大を今に伝える試作機のプロペラの映像です。
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近代
東京の近代を支えた砂利採取 多摩川砂利積込場跡
品質の良い砂利が採れる多摩川では、明治時代から砂利採取が盛んに行なわれ、都心に輸送するための鉄道が敷設されました。拝島町の堤防脇には、かつて五日市鉄道拝島支線の拝島多摩川貨物駅があり、採取した砂利の積込場になっていました。多摩川での砂利採取は昭和39年(1964)に全面禁止となりました。
近代
映像
昭島市文化財保護審議会 和田哲会長 多摩川の近代を語る-砂利採取と五日市鉄道-
多摩川の砂利採取が盛んだった時代、どのように砂利が採取され、運ばれていたのか。昭島市文化財保護審議会の和田哲会長に、実際に多摩川沿いを歩きながら、砂利の引込線の設置と廃線に至った経緯、当時の砂利積込場の様子、多摩川の水位の変化などについてお話しいただきました。
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近代
中村家旧蔵文書 青梅鉄道線路之図 甲
青梅鉄道(現在のJR青梅線。明治27年=1894年開業)が作成した線路図の一つ。線路図作成は用地買収の準備行為と思われ、立川停車場から日向和田停車場までを甲・乙・丙・丁・戊の5区間に分けている。これは、起点である甲武鉄道立川停車場から拝島停車場までの「甲」である(丁と戊は青梅市郷土博物館所蔵)。縮尺600分の1、全長約10メートル。
近代
中村家旧蔵文書 鉄道延長ノ義依頼書
明治21年(1888年)11月、開業直前の甲武鉄道会社宛に出された東京府北多摩郡、西多摩郡有志らによる鉄道延長願。市域の人物である紅林徳五郎(郷地村)、中村半左エ門(大神村)が主導している。内容は、石灰石輸送のための鉄道敷設を計画しているが、非効率なので甲武鉄道線を立川から日向和田まで延長して欲しいというもの。この願いは結局実現せず、後年の青梅鉄道会社設立につながる。
近代
明治14年、拝島村戸長役場「公用雑録」所収 人力車申合規定
明治14年(1881年)の拝島村における人力車規定の一部で、神奈川県人力車取締規則にそって定められている。営業人には「鑑札」が付与され、人力車は「拝島組」と書かれた提灯を付けていた。乗車させる前に必ず賃金(料金)を確認したうえで乗車させること、怪しい風体の乗客の場合は警察へ通告することなどが決められている。料金は距離により定められているが、挽夫が一人か二人で異なり、また、夜間の場合は三割増しになっていたようだ。
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明治~大正期
映像
三井家が買受け移築した鍋島侯爵邸
旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮)学校法人啓明学園の敷地内にある鍋島直大侯爵の邸宅の一部です。昭和2年、三井総本家 第十代当主三井高棟が買受け、この地に移築しました。外観は大名屋敷の伝統を継承した和風建築で、内部は近代洋風のデザインを取り入れた和洋折衷の造りとなっています。今も啓明学園の様々な活動に利用されています。平成22年に東京都の指定有形文化財(建造物)になりました。
近代
3Dパノラマ
【バーチャル探訪】旧三井家拝島別邸の格式高い応接間 洋風客室3Dパノラマ
旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮)の1階の洋風客室・次之間・廊下の3Dパノラマです。折上げ吹寄格天井、桐文の和紙張りの壁、雷文繋ぎの寄木張りの床など、和洋折衷のスタイルを取り入れた格調高い造りを細かい部分までご覧いただけます。