戸口の増加

403 ~ 404 / 706ページ
 以上のように東部沿岸在郷における漁業の発達と生産の増加に伴い、経済の中心地となった箱館は、天明・寛政のころになると、いよいよ戸口も増加し、前述のごとく寛政10(1798)年幕吏中村小一郎の『松前蝦夷地海辺盛衰報告書』にも、見られるように箱館地方は順調な発展をとげている。
 また、現在の函館市管内に含まれる村別の戸数、人口も、天明5(1785)年には次のように増加していた。
 
上山村五十戸に足らず二百七十余人
鍛冶村四十戸に足らず百八十余人
上湯川村三十戸に足らず百二十余人
下湯川村五十戸に足らず二百余人
亀田村三十余戸百四十余人
箱館村四百五十戸に足らず二千五百余人
尻沢辺四十戸に足らず百四十人に足らず
紫海苔村三十余戸百四十人に足らず
銭亀沢村十余戸五十余人
二十余戸九十人に足らず
石崎六十戸に足らず三百余人(『蝦夷拾遺』)

 
とあって、寛文年間には前記のように亀田村には200戸を数えていたが、これが僅(わず)か30戸余に減じ、それに代って港を控えた箱館村は400戸を超え、二千数百人の市街地を形成している。寛政3年『東蝦夷地道中記』によれば、
 
箱館 領主支配
御制札一ヶ所、家数四百軒余、二千三百人程、勤番浅利利兵衛、里人はこれを奉行と唱う。下代白鳥勝右衛門榊太郎右衛門名主白鳥九右衛門、年寄井口兵右衛門村岡清九郎逸見小右衛門茅野忠兵衛
 地蔵町内澗町大町弁天町裏町、中町、山ノ上町神明町
右は船問屋、木綿、古手、荒物、小間物の店、裏町山ノ上町は借屋住居の者、手間取、職人等あり。弁天町は小船の中宿多し。わずかの村なれども湊故繁華の地なり。冬春の間は船も往返なく淋しけれども、七月盆前後は大阪船、西国船、其外中国辺より入込、昆布商売最中なれば殊の外賑わし。もっとも長崎御用俵物の内、煎海鼠昆布は別に長崎屋とて会所あり。其外所産の交易蝦夷地出産何にもあり。第一は昆布江戸向の塩鮭、春は鯡なり。湊は松前地第一のにて大船数百艘程並べる所なり。

 
と見られ、すでに港を中心に8か町の町並を形成する繁栄を示している。