また、現在の函館市管内に含まれる村別の戸数、人口も、天明5(1785)年には次のように増加していた。
上山村 | 五十戸に足らず | 二百七十余人 | |
鍛冶村 | 四十戸に足らず | 百八十余人 | |
上湯川村 | 三十戸に足らず | 百二十余人 | |
下湯川村 | 五十戸に足らず | 二百余人 | |
亀田村 | 三十余戸 | 百四十余人 | |
箱館村 | 四百五十戸に足らず | 二千五百余人 | |
尻沢辺村 | 四十戸に足らず | 百四十人に足らず | |
紫海苔村 | 三十余戸 | 百四十人に足らず | |
銭亀沢村 | 十余戸 | 五十余人 | |
潮泊村 | 二十余戸 | 九十人に足らず | |
石崎村 | 六十戸に足らず | 三百余人 | (『蝦夷拾遺』) |
とあって、寛文年間には前記のように亀田村には200戸を数えていたが、これが僅(わず)か30戸余に減じ、それに代って港を控えた箱館村は400戸を超え、二千数百人の市街地を形成している。寛政3年『東蝦夷地道中記』によれば、
箱館 領主支配 |
御制札一ヶ所、家数四百軒余、二千三百人程、勤番浅利利兵衛、里人はこれを奉行と唱う。下代白鳥勝右衛門、榊太郎右衛門、名主白鳥九右衛門、年寄井口兵右衛門、村岡清九郎、逸見小右衛門、茅野忠兵衛 |
地蔵町、内澗町、大町、弁天町、裏町、中町、山ノ上町、神明町 右は船問屋、木綿、古手、荒物、小間物の店、裏町、山ノ上町は借屋住居の者、手間取、職人等あり。弁天町は小船の中宿多し。わずかの村なれども湊故繁華の地なり。冬春の間は船も往返なく淋しけれども、七月盆前後は大阪船、西国船、其外中国辺より入込、昆布商売最中なれば殊の外賑わし。もっとも長崎御用俵物の内、煎海鼠、昆布は別に長崎屋とて会所あり。其外所産の交易蝦夷地出産何にもあり。第一は昆布、江戸向の塩鮭、春は鯡なり。湊は松前地第一の泊にて大船数百艘程並べる所なり。 |
と見られ、すでに港を中心に8か町の町並を形成する繁栄を示している。