このような戸口の急増に伴い、
箱館市街も変貌した。すなわち、この当時の
箱館の市街を見ると、町は御役所と書かれた
箱館奉行所を中心に
箱館山の山すそおよび砂洲の西岸に沿って広がっていた。役所正門から海岸に向かって広い坂道が通り、貿易港としての表玄関である
運上所、
産物会所および
交易会所につき当っている。それを中心に海岸に沿って西に
弁天町、
大町、東に
内澗町、
地蔵町が一列に並んでいた。
弁天町は
箱館湾を外海と分かつ岬の付近に展開し、外側に
山背泊および鰪澗などの漁師、水夫らが住む場末町に続き、古くから格好の停
泊地として賑わい、小商人、漁師、
小宿等が集まり、第一繁華の地といわれていた。それに続く
大町は
産物会所、
交易会所から、内陸の旅人、商品の出入を取締まる
沖ノ口役所および
問屋、
小宿、諸商人ならびに
場所請負人らの大家屋が軒を連ね、その東に続く
内澗町とともに商港
箱館の中心をなしていた。また
弁天町の坂上には
神明社および
高龍寺があり、
大町の坂上には
実行寺、
称名寺、
浄玄寺等の大寺が門を並べて寺町通りを成し、その裏には天神社、その前には
天神町および
箱館山に祀られた薬師、
愛宕社に登る坂があった。
内澗町に続く
地蔵町は
弁天町に対して町の内陸寄りのはずれに位し、小商人、
蝦夷地出稼ぎを業とする場所出稼人、漁師、職人などが住み、町名になった
地蔵堂があった。
安政期の函館港総図 「罕有日記」より