ともあれ、この条約附録の調印によって、箱館における遊歩区域が5里四方と決定し、箱館開港に伴う外交上の取極めはひとまず完了した。そのため幕府は、以後箱館開港に備えて様々な対応策を講じていったが、ここではその主要なものについて記しておこう。まず幕府は、安政元(1854)年6月26日、松前藩より箱館及び同所より5~6里四方の地を上知し(『幕外』6-315)、6月晦日には箱館奉行を再置して勘定吟味役竹内清太郎を箱館奉行に任じ(『幕外』6-325)、7月19日、同地を箱館奉行の「御預所」とした(『幕外』7-30)。竹内を箱館奉行に任じたのは、竹内がペリー来航以来、台場普請掛、大砲鋳立掛、大船製造掛の職を歴任するとともに、下田におけるペリーとの日米交渉において、林大学頭とともにアメリカ応接掛の一員として活躍し、先の条約附録の作成・調印に加わるなど、海防と対外関係に関する豊富な知識を有していたからであろう。
その後、8月23日調印の日英和親条約でイギリスに長崎・箱館を開港し(『幕外』7-151)、次いで9月2日、オランダにも下田・箱館を開港する旨通知したこと(『幕外』7-172)もあって、10月22日、箱館奉行(竹内・堀)は老中に対し箱館港掟書の件を上申し、12月29日老中阿部正弘の指示を得て決定された(『幕外』8-49)。その内容は次のようなものであったが、『函館税関沿革史』所収の「掟」(出典不明)の文言と若干異なるところもみられるので、後者のうち誤読・脱字とみられる部分を除き、文言の大きく異なるところ傍注()で示す。
掟
(沖之口番所前波止場之外出入ヲ許サヽル事)
一此港ニ入船々ハ、沖の口番所前并亀田川尻波戸場の外出入を許さざる事。
一所用あらハ、沖の口番所ニ至リ申出へき事。
一船中欠乏之品役人江申立候ハヽ、當所有合之品ハ、奉行所より相渡すへし。
但、相對を以贈答并賣買ハ不二相成一候事。
一奉行所の差図を不レ待して、上陸いたすましき事。
一寺院市中等遊歩いたし候節、往来之外、備向人家并道なき所へ立入間敷事。
一海上にて、吾邦の船へ近つき密買いたすましき事。
(此港出入之節)
一船々此港内にて発砲いたすましき事。
右之條々相守へし。
月 日
箱館奉行
文言の相違が最も大きいのが第1条であるが、同年12月17日、箱館奉行が同配下の同心に示した「異国船渡来之節心得方」中の11か条の「箇条書」のうち、後半の7か条が箱館港掟書と同一文であり、しかも掟書の第1条に相当する第5条の文言が「此港ニ入船々は、沖之口番所前波戸場之外出入を許さヽる事」となっていること(『幕外』8-172)、また安政2(1855)年4月3日、アメリカ艦隊の傭船グレタ号が箱館に入港した際、日本の役人が日本語とオランダ語の2様の「港湾規則」を示し、オランダ語版の第1条には「番所以外のところでは、すべて上陸を禁ずる」旨の文言が記されていたこと(リュードルフ著・中村赳訳『グレタ号日本通商記』)、さらに同年6月16日、箱館奉行が老中に差出した「異人上陸波止場」に関する上申書(『幕外』12-30)に、「異国人上陸之節、沖之口波戸場之外より上陸不二相成一旨、兼而伺済之上、掟書相示し候…波戸場一个所ニ而ハ事実差支、…以後ハ箱館沖之口并亀田川尻両所江波戸場定置候旨、掟書認直し可二相渡一奉レ存候」とあること、などからすれば、第1条の文言は、『函館税関沿革史』所収「掟」の文言の方が本来の文言であったとみてよいであろう。それにしても、『幕末外国関係文書』8-49の「掟」第1条の文言がなぜ「沖の口番所前并亀田川尻波戸場」となったのか、今のところその理由は不明としかいいようがない。
ともあれ、こうして安政元年末までには、箱館開港のための柱ともいうべき箱館港掟が決まったが、幕府(長崎奉行・箱館奉行)は、これと相前後してオランダ語通詞岩瀬弥四郎・名村五八郎に3年交代で箱館に勤務するよう命じた(『幕外』7-229、8-207)。さらに安政元年12月、箱館奉行は、外国人上陸の際の休息所を実行寺、谷地頭の佐吉宅、七重浜の久兵衛宅(2~3か国人同時上陸の際は、高龍寺・称名寺を追加)、御用所を称名寺(3か国人同時上陸の際は、山田屋寿兵衛宅)、応接所を浄玄寺とする旨決定するとともに、外国人上陸の際の警備体制を強化するため町年寄6人(蛯子次郎・白鳥新七郎・西村次兵衛・蛯子半五郎・蛯子七左衛門・白鳥新十郎)、名主4人の計10人に1人に付仮雇足軽5人宛計50人を調達するよう命じ(『幕外』8-120・134・135)、外国人に対する諸品売渡しの取扱いを佐藤忠兵衛・山田屋寿兵衛・福島屋嘉七・酒屋八郎右衛門の4人に命じた(『幕外』8-136)。また同じく同年12月問屋に対し「沖合ニ而異国舟江、直賣買等者決而致間敷」旨申し渡すとともに、市中に対しては、「異船渡来之節者、異人江御法度御示しニ相成、其上役々取締致ニ付、安心致し商売可レ致候、婦女小児立退ニ不レ及候得共、猥ニ出歩行、或者見物等無用ニ可レ致事」と触達した(「御触書写」)。
こうして安政元年12月までには、翌年3月の箱館開港に対応すべき諸準備がほぼ整えられたが、同年12月21日、下田において新たに日露和親条約が調印され、ロシアにも箱館・下田・長崎を開港することとなった(『幕外』8-193)。ここに至って箱館は、アメリカ、イギリス、オランダ、ロシアの4か国に開港されることとなったのである。かくして箱館奉行は、翌安政2年2月13日、老中に対し外国人の「上陸遊歩之節御取締之為め」、峠下と川汲への山路マス川峠、及び西側の当別の3か所に関門番所の設置願を提出し、すぐ許可されたため(『幕外』9-90)、即刻工事に着手した。3月までには完成したとみられる。開港期日直前の対応策であった。