[下海岸の交通の変遷]

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 下海岸の海岸道路も、今は二級国道になり、改修舗装されバスやトラックが頻繁(ひんぱん)に往復するようになり、昭和四十六年七月から戸井と下北の大間を、約一時間で結ぶフェリーボートが就航し、昔の交通状態を知っている人々にとっては、夢のような変り方である。
 古老の話やいろいろな資料によって、戸井を中心とした下海岸の交通の移り変りの概要を述べて見たい。
 
 1、陸上交通
 蝦夷時代から和人が本州から移住、定着した松前時代はもちろん、明治、大正時代までの数百年間は、海岸沿いにつけられた踏分(ふみわ)け道であった。汐首、瀬田来間は、汐首岬、立待岬の断崖の険阻な細道を通り、戸井、原木間は、熊別坂、鎌歌の丘を越えた。
 尻岸内への往復は、原木、日浦間の原木峠の急坂を上下し、更に日浦、武井(豊浦)間の日浦峠の山坂道を越えた。又尻岸内から椴法華へ行くには、根田内から恵山を越えた。そして下海岸の道路は、椴法華で行き止りであった。
 函館、椴法華間、即ち下海岸の陸路の難所は、汐首越え、原木峠、日浦峠の山越え、恵山越えであった。現存の人々でも、明治、大正、昭和初期に下海岸で生まれ、育った者は、たいていこの難所を越えて往復した体験をもっている。
 開拓使時代(明治元年三月から明治十五年一月まで)の下海岸と蔭海岸の里程と道路状態が、古記録に次のように書かれている。
 
 ①函館から下湯ノ川まで、一里二十八町余、砂地
 ②下湯ノ川から志海苔、銭亀沢、石崎諸村を経て小安村まで、三里余、皆平坦
 ③小安村から戸井村まで、二里二十三町、稍々平坦
 ④戸井村から尻岸内まで二里十四町余、そのうち二里は山道(原木、日浦峠)であるが、難所はない。
 ⑤尻岸内から椴法華村まで四里弱、山道で稍々嶮路。
 
    (蔭海岸へ)
 ①椴法華から古部(ふるべ)、木直(きなおし)の小村落を経て、尾札部(おさつべ)まで五里強。絶壁を屈曲して、ようやく人馬を通ずる嶮路なので、行旅は多く海路によったが、その海路は六里余であった。明治十三年(一八八〇)に、道路を改修してからは陸路による者が多くなった。
 ②尾札部村から臼尻(うすじり)村までは二里余。海汀に沿って通り、臼尻村から熊村まで一里半弱、坂道であるが、なだらか(・・・・)である。
 ③熊村から鹿部村まで三里強。うち一里は海岸で巌山が多い。
 ④鹿部村から砂原村まで四里半強。うち二里半は坂道であるが、地は平坦である。
 
 以上が開拓使時代の下海岸と蔭海岸の里程と道路の実態であるが、簡潔(かんけつ)な記述であるが、当時の状態がよくわかる。然し前にも述べたように、この状態が殆んど改善されずに、大正時代まで続いたのである。
 昔は川に橋がなく、長谷川益雄の手記にあるように、明治三十二年頃も松倉川や汐川には渡し舟があり、女那川にも渡し舟があった。小さな川には殆んど橋がなく、徒渉したのである。
 開拓使時代の末期の明治十三年(一八八〇)に下海岸の道路改修が一部行われた。
 明治十四年十二月二十八日付で、小安村、吉田佐次右衛門が「小安村支汐首、瀬田来の山道修繕費を寄附した」ことについて、開拓使から賞状と木盃を授与されているが、これは明治十三年に汐首岬の海岸道路をつけた時のものであろう。吉田佐次右衛門は、釜谷の〓吉田家の二代目である。
 陸路をとる場合、交通機関はなく。我と我が足で歩いたのである。出稼ぎに行く場合は、着換衣類や食糧を背負って歩いたのである。馬が飼育されるようになってからは、体が丈夫で、どんな険阻な山坂道でも平気で歩く駄馬(ドサンコ馬)が、人や荷物を運ぶ役目をした時代が相当長い間続いた。
 明治時代にもて余す位鮪(まぐろ)を大漁した時、函館まで駄馬の背にのせて運搬した。この駄馬のことを村人は「ダンツケ馬」と呼んでいるが、古老は
 「鮪を背に乗せたダンツケ馬が、数十頭も列をなして函館に向う光景は壮観なものであった。当時の子どもたちは、『馬という動物は鮪を運ぶものである』、と考えていたようだ」と語っている。ダンツケ馬の飼育頭数を古記録で調べて見ると、部落々々の戸数の二倍乃至三倍という時代があった。富有な家では五頭も七頭もこの駄馬を飼育しており、普通の家でも一頭乃至二頭位飼育して、薪、肥料その他の荷物の運搬に使ったものである。
 その後、明治四十三年(一九一〇)に北海道庁の手で、下湯ノ川から戸井村字弁才澗の戸井郵便局の前までの道路が改修、開削され、馬車の通れる道路になった。このころの道路開削は、馬車の通れる道というのが目標であった。明治四十三年の大改修で、汐首岬や立待岬の崖上の危険な道を通らなくてもよいようになった。
 この道路改修後、湯ノ川、戸井間に客馬車が運行するようになった。然し貧困な下海岸の一般の住民から見れば、運賃が高くて、客馬車を利用するのは一部の富裕な人々だけで、一般の人々は依然として徒歩で往復したのである。
 客馬車が運行するようになってからも、原木峠、日浦峠の山越え道は昔のままであった。昭和の初年に、函館、戸井間にバスが運行するようになり、昭和三年七月、原木峠と日浦峠の海岸道路が開削され、昭和五年六月、バス路線が尻岸内まで延長され、数百年関鎖(とざ)されていた下海岸の陸の孤島が解消されたのである。
 又古武井から椴法華まで、沢沿いにバス道路が開かれ、椴法華から古部へ越えるバス道路も完成し、下海岸と蔭海岸の環状バス道路が実現し、昭和四十五年この道路が二級国道二七八号線に昇格になり、国費による改修舗装が行われるようになって面目を一新した。
 太平洋戦争中、戸井要塞までの軍用鉄道として着工された戸井鉄道は、線路を布設するばかりになっていたが、戦況不利のため中止された。下海岸住民待望の鉄道であったが、日の目を見ずに終り、戦争の経過を語る遺跡として空しくその姿を止めている。この鉄道用地は、昭和四十五年、関係市町村に払下げられて、下海岸住民の鉄道の夢は消えてしまったのである。
 
 2、海上交通
 蝦夷時代から明治、大正時代にかけて、陸路、徒歩、駄馬などの時代に、陸上交通の不便さを補うための海上交通も、いろいろな移り変りがあった。
 蝦夷時代には、丸木舟や縄とじ舟などが使われ、下海岸を旅する人々は、汐首岬、原木峠、日浦峠、恵山、椴法華などの山越え道を越えない場合は舟で漕ぎ渡り、或は帆走して岬を越えたのである。こうして容易な道は歩き、難所は舟で渡り、運上屋から運上屋、後世は会所から会所へとりを重ねて旅を続けたのである。
 和人の往来が頻繁になり、定住者が増加して来るようになってからは、小廻船や弁才船などが、丸木舟や縄とじ舟に代った。下海岸にも山背泊、澗(大澗)オツケの浜、武井、横、弁才澗、斉藤澗、オカベトノ澗(オカベ、オカベ澗)など入江につけられた地名が残っているが、これは蝦夷時代から和人時代にかけて、船の入港、碇に適した場所につけられたものである。
 
 ○恵山汽船共同組合の設立(明治三十四年)
 下海岸の人々は、陸路の不便を補うために、海運について関心を寄せていた。戸井、尻岸内の有志が発起人になり、明治三十四年(一九〇一年)に「恵山汽船共同組合」が結成され、下海岸の海運の便を図(はか)ったことも、その一つの現れであろう。
 今から七十年昔に、戸井の〓宇美家の五代第吉が頭取(組合長)に推挙された「恵山汽船共同組合」の概要について述べて見たい。
 明治三十四年(一九〇一)下海岸の交通運輸の便を図ろうと、戸井村の宇美第吉(五代)二瓶喜宗治、池田金作、吉崎力松、小柳吉太郎、巽(たつみ)石次郎、巽石蔵、尻岸内村の笹波清次郎、谷内嘉門、笹田玉蔵、浜田栄助、東助五郎、松本総助等が発起人になり、戸井、尻岸内両村の有志に呼びかけ、明治三十四年七月二十一日株主総会を開催し、「恵山汽船共同組合」が設立された。
 設立総会で、頭取以下の役員が次のように決定した。
 
      頭取     宇美 第吉(戸井村字浜中)
      取締     巽  石蔵(〃 字汐首)
       〃     小柳 吉太郎(〃 字瀬田来)
       〃     二瓶 喜宗治(〃 字原木)
       〃     藤本 栄太郎(〃 〃 )
       〃     東  助五郎(尻岸内村字日浦)
       〃     浜田 栄助(〃  字澗)
       〃     笹波 清次郎(〃  字古武井
       〃     板村祐右衛門(函館区弁天町)船主
       〃     南  勇次郎(尻岸内村字根田内)
      監査役    北川 貞治
       〃     谷内 嘉門(尻岸内村字澗)
 
 設立総会当時の株主の人数は六十九名で、その内訳は、戸井村三十八名、尻岸内村二十七名、函館区三名、椴法華村一名であった。
 株主六十九名中、戸井村から三十八名も参加したということは、当時戸井村の経済力が他町村よりすぐれていたということと、交通運輸問題について熱意が強かった証拠と思われる。
 設立総会当時の株主名と出資額は次の通りである。各株主には、「出資証」が渡された。
 

[恵山汽船協同組合設立当時の株主名と出資額]

   株主合計 六十九名  出資金総額 四、七四五円
 
 この共同組合が設立されてから、株主の一人、板村祐右衛門所有の二隻の汽船の提供を受け、定期的に函館から戸井、尻岸内間の貨客輸送に当った。当初就航したのは、渡島丸(八六トン)第一丸(四二トン)であった。
 このほかに、明治末期から大正初期にかけて、有川丸(六四トン)第三古宇丸、観音丸など一〇〇トン未満の小蒸気船が下海岸を運航していた。
 鰮漁の時期には、函館、戸井間を運航する汽船が数隻往復していたが、夏季には函館から古武井の硫黄山の硫黄を運んだり、物資を運ぶ船が時々寄港するだけであった。
 大正七年から函館の東運汽船株式会社や函青汽船株式会社などが、北海道庁命令航路に従い、鯨洋丸、共益丸、渡島丸、忠福丸などの小蒸汽船や機帆船が定期船として就航し、下海岸や蔭海岸の貨客輸送に当っていた。
 その船によって出帆時刻や寄港地は違っていたが、下りの船はたいてい午後十時から夜半に出帆し、戸井には夜明けに着き、尻岸内には午前八時頃着いた。寄港地は瀬田来、川尻、戸井、日浦、尻岸内古武井という順で、函館から根田内(恵山)椴法華に直行し、蔭海岸に寄港する船もあった。
 船を横づけするような港は、もちろんなかったので、貨客の積み下しはハシケ又は磯舟で行った。そしてこれを請負う回漕店が、寄港地毎に設けられた。この頃戸井の館鼻に回漕店が二軒あった。〓谷藤回漕部は明治三十四年に開業し、〓金沢回漕部は大正六年十二月一日から開業した。
 北海道庁命令航路の汽船が就航するようになってからは、陸行する者が著しく減少した。この命令航路も、尻岸内までバスやトラックが運行するようになってから、貨客が減少したため廃止された。
 命令航路時代、陸路の困難な冬期間には、函館への行き帰りは、殆んどこの船を利用した。百トン足らずの小さな船のため、波浪が少し大きいと船の動揺が激しく、女、子ども或は船に弱い人々は、船酔いに苦しみながら函館までの往復をしたのである。
 バスやトラックが運行するようになって、沿岸航路の必要がなくなり、戸井に寄港する船が見られなくなったが、昭和四十六年七月一日から東日本フェリー株式会社のフェリーボートが、戸井港と大間港との間に就航し、戸井と大間を約一時間で結び、北海道、本州間の貨客輸送に当るようになった。
 昔は尻岸内あたりから函館まで陸行する者は、足に豆を出しながら丸一日かかり、海路は小さな船にゆられ、船酔いに苦んだものであるが、現在では、椴法華からでさえ、函館での会議、買物をすまして日帰り出来るようになったのである。
 道路が完全に整備されれば、函館との交通が時間的に大幅に短縮され、戸井あたりから、函館市内の高校や大学に通学出来る時代も遠くないものと思われる。
 
 下海岸の交通発展の歴史を辿って見ると、
 ①幾つもの峠を越え、踏分け道を徒歩で歩き、或は岬々を小舟で漕ぎ渡った時代
 ②駄馬、荷馬車、客馬車というように、馬を使った時代
 ③陸路による不便を補うために、小さな汽船を使った時代
 
 このような時代を経て、自動車時代に発展したのであるが、自動車時代までの道程が他地域より余りにも長かったという感じである。これは下海岸の道路の開さく整備が、常に交通機関の進歩について行けなかったことが原因であった。道路の開さく整備の障害になったのは、汐首岬、原木岬、日浦岬、恵山岬などの断崖絶壁であった。
 自動車時代にはいった昭和初期から、これらの岬の海岸沿いに道路が開さくされたり、トンネルをつくったりして、障害が取除かれ、陸の孤島が解消したのである。
 
   ①昔の交通機関と道路(昭和八年の記録)
 一、陸の交通機関としては人馬継立営業組合ありて、営業者十七名、乗馬一頭、駄馬五十四頭を有すと雖も専業者に非ざるを以て急速を要する場合は客の満足を得ること至難なりとす。
 一、海上の交通機関としては函館区東浜町〓印板村商船部(電話四四九)の汽船三艘、函館古武井間又は椴法華間を毎日往復し、内二艘は根田内、尻岸内、日浦、戸井等に寄港することあるも、毎日航行せざることあり。
  海産物あらざる時季は寄港せざる事ありて正確ならず。平時にあっては押野鉱山並に釧勝興業株式会社古武井鉱山産出の硫黄を輸送するに止まり乗客の取扱は極めて稀なりとす。これ全く汐首沖の潮流急にして動揺甚しきを以て、危険を恐れ徒歩陸行するもの多きに因(よ)るが故なり。
 一、明治四十三年十二月戸井、湯の川間道路開さく工事竣工に付亀田郡湯の川村大字下湯の川字寺野二千六番地山川丑太郎なる者。乗合馬車営業を開業し、湯の川戸井間を毎日一回往復するに至り稍々交通の便を開けり。
 一、明治四十四年八月一日桧山郡厚沢部村大字安野呂村藤木倉蔵なる者、戸井村大字戸井村字弁天澗に於て乗合馬車営業を開始し、戸井、湯の川間を石崎にて中継し毎日二回往復するに至れり。
 一、大正十年十月より函館・戸井間乗合自動車運行す。一日二回往復直行。
 一、大正十二年四月一日より北海郵船株式会社函館森間定期命令航路開けたり。
 一、大正十二年四月一日より戸井村川尻より原木まで、準地方費道路工事開始、同年七月十日終了す。
  大正十四年まで函館椴法華間の道路改修工事竣工の予定なり。
 一、昭和八年一月現在、道路改修工事は目下古武井まで竣工し、乗合自動車八往復直行す。
 
   ②函館から戸井までの旅(「志らぎく」より)
 バスなどのなかった今から七十三年も昔の明治三十二年(一八九九)に、庁立函館中学校(函館中部中学校)の一年生長谷川益雄が、夏休みに最初の帰省をした時のことを追憶して書いた文章がある。函館を出発して戸井に辿り着くまでの途中の様子を、くわしく書いているので、当時の状況を知る好資料である。
 長谷川少年は函中卒業後、京都府立医学専門学校を卒業し、父重威死去後、戸井に帰り、父の後を継いで戸井で開業し、四十数年間戸井村民の医療に献身し、村民から名医、仁医と讃えられた、後の長谷川益雄医師である。
 
 「このころは交通機関というものの全然なかった時代である。函館から戸井の館鼻まで、約八里の道を、全部徒歩によるより方法がなかった。
 いよいよ、待ちに待った夏休みになったので、祖母に帰省の仕度をしてもらい、七月末の暑いさかりだというのに、みんなに見せたいばかりに、帽子は制帽、上衣も制服、キャハンをつけ、ワラジをはき、読みもしないだろうが教科書を四、五冊と、荷厄介(にやっかい)だろうに着がえの単衣(ひとい)と一しょに風呂敷に包んで、斜めに背負い、祖母が梅干を入れて焼いてくれた握り飯を持って家を出た。
 この日は朝からいいお天気で、陽光がギラギラ照りつける午前八時頃、祖母に見送られて鹿鳥立ちしたのである。
 浅利坂を下(くだ)って、まだ戸の開(ひら)かない、みどり、天津(てんしん)(いずれも料理屋)の前を通り、大和座の絵看板を横目で見、新蔵前から大森の海岸に出た。
沖に見えるたくさんの磯舟は昆布採りの舟であろうか。少し行くと高大森である。ここは海岸より一段高地になっており、海が荒れても波もかぶらず、砂地とも思えぬ程かたい細道が続き、いろいろな草が生えている。
 この道添えには殆んど人家はなく、細道は湯の川まで続いている。この道は湯の川までの近道で、本道は東川町から町中(まちなか)をまっすぐ行く道であるが、この近道は本通の三分の二くらいの距離なので、下海岸への旅行者は、みなこの近道を通(とお)ったのである。
 スタコラ、スタコラと歩いているうちに、暑いので汗が眼にはいる程出る。暑さは益々ひどくなり、汗は益々流れ出る。暑さをこらえ、汗をふきふき歩いているうちにも戸井のことをいろいろ考える。
 『去年のマグロ漁はスバラシかったけ、今年もまたとれないかなあ』とか
 『戸井のこんどの家はどんな家だろう。小安の病院の入院室をそっくり買って戸井に運び、その材料で海の見下せる高いところに、新しい病院を建てたという知らせがあったのは先月であったが、どんな家だろう』とか
 『「去年の夏に帰省した時の家(今の四村さんのところにあった)は、ずいぶんひどい家だったが、今度の家は、少しはいい家だろう』など、いろいろなことを考えながら歩いているうちに、何時の間にか松倉川の渡し場に来ていた。
 松倉川は巾五間くらいの川で、静かに流れている。向う岸に茶店のような小さな家が見え、こちらの岸に小さな渡し舟が一艘ある。渡し舟には、私と同じくらいの年の先客が一人乗っている。近寄ってよく見ると意外にも、同じ組の飯田君であった。
 お互いに『ヤア』『ヤア』と声を出した。飯田君とは同級ではあったが、親しく話し合ったことはなかった。私が『何処まで行くのか』と聞くと、飯田君は『戸井まで』と答えたので、いよいよ驚いた。
 飯田君にいろいろ聞いて見たら、飯田君は、戸井の戸長音羽薫さんの実子で、母方の姓を名乗っていることを話し、又、『今年の春会津から北海道へ来て、函館の叔父の家にいたら、函館中学にはいったらどうだというので、受験したら合格したということも語った。更に会津から来て日も浅いので、まだ友達も出来ないし、夏休み中は父のところで過したい』などと語る丸出しの会津弁も何となく淋しそうであった。私は
 『父が戸井で医者をしているので、今帰るところだ。連れができて嬉しいね。これからは仲よく遊ぼう』というようなことで、急に親しくなってしまった。
 二人で両岸に張り渡している綱を、手繰(たぐ)り、手繰りして向う岸につき、渡し舟を下(お)りて、茶店に渡し賃として、五厘銅貨を置いた。
 いよいよ暑さが増したので、二人は上衣を脱いで腕にかけて歩き出した。
 寒い坂を越えて根崎までは殆んど砂路で、大そう歩きづらい。どこまで行っても、一本の帯のような海岸沿いの道で、右側には家が殆んどなく、道路の近くの砂浜に、さざ波が白く光って打ち寄せる。
 砂浜や道ばたには、今日採取した巾の広い、そして長い昆布がきれいに並べられていた。津軽海峡をへだてて、下北半島が絵のように美しく望まれた。
 道路の左側は、まばらではあるが家が続いており、柾(まさ)葺と草葺の屋根が混っている。樹木は殆んど見あたらない。強い潮風のために木が育たないのである。
 銭亀沢にはいると、家屋も少し立派になり、家が集落をなしているところもある。ここを過ぎると山路を少し歩かなければならない。ここの海岸には岩石が重畳していて、岩の上を跳(と)び跳び、汐の引いた時だけ足をぬらさないで歩ける。ここは岩肌が黒いので黒岩といわれている。この山路は短かくて、上(のぼ)ればすぐ下(くだ)りになる。三、四町の距離だが、眺望は非常によい。
 ここを過ぎると湊という部落になる。ここから古川尻までの一帯は、旅人が休憩して昼食をとるところで、大きな構えの旅館のような家もあり、小さな茶店がたくさん軒を並べている。湊の部落と古川尻との間に汐止川がある。下海岸一の大きな川である。ここにももちろん橋はなく渡し舟で旅人を渡す。渡し賃は一銭である。
 古川尻から海岸を行けば小鳥澗という難所がある。ここはもろい崖が海に迫り、足場が悪くて危険なので、大ていの旅人は古川尻から石崎までは山越えをする。広い野原の中の細い一筋道が十町程も続いていて、石崎のお宮の辺に下りるのである。
 二人は腹がへったので、日盛りで草いきれのムンムンする道ばたに腰を下し、弁当を開いたが、このあたりには水もない。食事を終って食後ゆっくり休みたかったが、日陰のない道路ばたなので暑くてたまらず、むやみにのどが乾くので、二人はそうそうに腰を上げて歩き出した。石崎への下り坂の中頃にある山家の掛樋(かけひ)の水を見つけ、手ですくって夢中で飲んだ水のうまさは、いまだに覚えている。
 石崎は稍々にぎやかな部落である。左側の道端に宏荘な寺院がある。これが有名な日持山妙応寺というお寺で、昔日蓮上人の弟子、日持上人が渡道して、この寺を開いたと伝えられている。
 石崎の東の端に小川があり、この川が戸井村と銭亀沢村の境界をなしている。この川を渡った最初の部落が小安である。ここは私が幼年時代に暮した思い出の部落である。境界の川から幼年時代を過した家のあったところまでは一里近くもある。この道は人家もすこぶるまばらで、道も砂道で非常に歩きにくい。
 やがて昔なつかしい小安病院の前を通った。なつかしくて立止って見ると、看板は小安病院ではなくて、桜井病院と書いてあった。
 このあたりの家の前や、浜で働いている人々、或は道ばたで遊んでいる子どもたちまでも、私を覚えて、にこににこ笑っている。中には声をかけてくれる人もあってなつかしい。『戸井さ行くのけえ、ママ食って行きなさい』と大きな声で呼んでくれる人もあったが、『おそくなるから』と辞退して道を急いだ。
 やがて釜谷を過ぎ、白い浜まで来た。白い浜は起伏の多い細道で、家は一軒もなく草が茫々と生えている。下ればすぐ海で、時々海水に足をぬらしながら、岩礁の上を行かねばならぬところもある。
 ここを越えて、「戸井恋し」と毎日函館から望み見ている汐首岬にようやく辿り着いた。ここの人家は、壁をえぐったような崖下に、わずかな地積(ちせき)を占(し)めて立ち並んでいる。
 津軽海峡の荒潮が岩礁に打ち寄せている。波も荒く、潮も早いところで、海流が早瀬のように白浪を立てて、東へ東へと流れるのがよく見える。
 下北半島が間近に望まれ、大間岬灯台が呼べば応(こた)えるように近く見える。汐首岬と大間岬との間は、北海道と本州との最短距離の海峡である。
 汐首岬から少し行くと南部岩があり、この岩の上の岬に汐首灯台がある。ここを過ぎると瀬田来で、ここも汐首と同じような地形の部落で、崖下に人家が立ち並んでいる。瀬田来を過ぎれば、いよいよ目ざす戸井本村である。
 戸井にはいると、前も後もいくらかゆとりがあって、稍々広々とした感じであるが、相変らず片側町である。
 戸井川の川口の入江には、弁財澗という名前がつけられ、昔は弁財船の碇する入江であったという。
 弁財澗の次が横、ここを過ぎると家族の待っている館鼻である。館鼻は昔岡部某という豪族が、アイヌの襲撃を防ぐために土塁(どるい)を築いていたところで、その館跡が旧役場跡といい伝えられている。
 二人はくたくたに疲れ果てて館鼻の家に辿りついた。一年ぶりで、始めて見る私の家は、館鼻の東端、蛯子川という小川の川沿いの丘に建てられており、本道からダラダラ坂を小半町登ったところに東向きに建てられていた。
 飯田君の家即ち音羽戸長の住宅は、蛯子川を挾んだ向いの台地に建っていた。ここからは浜中の海が湖水のように望まれ、戸井の象徴武井の島が絵のように浮んで見える。
 新築されてから始めて見る私の家は、去年の家よりも広く立派なので安心した」(長谷川益雄著『白菊』より)
 
 以上が長谷川益雄医師の少年時代の追憶である。昔からいろいろな人が下海岸の紀行文を書いているが、このようなくわしいものはない。明治三十年前後の、函館、戸井間の状態を知る貴重な文献である。