図1.豊臣秀吉画像
関東惣無事令は、北条氏を中心とした北関東の諸大名間の紛争をその対象としていた。このころ、北条氏の北進と対峙(たいじ)していた北関東の諸大名は、豊臣政権による介入を望んでいたという政治的な状況下でもあった。関東惣無事令は、五月二十五日以降の政治日程に上っていたといえよう。
天正十四年五月十五日の旭姫(あさひひめ)の輿入れの後、家康は十月末上洛し、秀吉へ臣従する。家康より先に上洛し、関東から奥羽にかけての申し次ぎ・取り次ぎを期待されていたのは上杉景勝(うえすぎかげかつ)であったが、家康上洛後の十一月四日付で景勝に宛てられた秀吉直書には、「関東之儀、家康と令談合、諸事相任之由被仰出候」(上杉家文書 八一七号)とあり、これにあわせて、「家康右之分候ヘハ、関東ヘ之人数も不差越、無事ニ可仕由、家康ヘ被仰出候条、」と伝えられる(同前 八一八号)。つまり、家康の上洛が契機となり、景勝は脇役へと退くこととなり、家康を仲立ちとした、関東惣無事令が推し進められることになる。
関東惣無事令は、おそらくこの年の十一月十日ころに作成され、十一月十五日に、そのころ三河国岡崎(おかざき)にいた家康のもとに届き、そして、家康が朝比奈泰勝(あさひなやすかつ)を北条氏のもとに派遣して、その趣旨を伝えたものと思われる。
ところで家康は、関東惣無事令が発令される以前の天正十二年(一五八四)に、すでに関東の紛争に介入し調停を行っている。すなわち、関東「惣無事」令は、秀吉による関東「惣無事」政策を、家康に委任することにほかならなかったのである。
さて、奥羽に対しては、「関東・奥羽惣無事之儀、今度家康ニ被仰付条」とある、佐竹氏の家臣多賀谷重教に宛てた年欠の十二月三日付書状が知られている(資料古代・中世No.一〇七二)。また、このほかにも、やはり年欠の同日付で、「対富田左近将監書状遂披見候、関東惣無事之儀、今度家康ニ被仰付候之条」で始まる、白土右馬助に宛てたものと(白土文書『福島県史』七)、片倉小十郎に宛てたもの(伊達家文書 九八六号)の二通が知られる。
これら三通の書状は従来、天正十八年(一五九〇)の小田原攻略に際して秀吉によって発給されたものといわれてきたものであるが、天正十五年の九州攻めの時期と比定することによって、豊臣政権の全国統一の基本戦略、すなわち「惣無事」の論理として見直されることになった(藤木前掲書)。
ところが、「関東惣無事之儀、今度家康ニ被仰付候之条」という、関東での惣無事政策が、家康が秀吉に臣従した天正十四年十月を契機とするものであるとしたとき、一年以上もの時間が経過していること、また、伊達氏の動向などから、これをさらにさかのぼらせて天正十四年とすべきといわれるようになった(立花京子「片倉小十郎充て秀吉直書の年次比定」『戦国史研究』二二)。
また、天正十六年(一五八八)十月二十六日、家康は伊達政宗に書状を遣わして、最上義光(もがみよしあき)との和議を斡旋(あっせん)しようとしていた(伊達家文書 三九二号)。しかし、伊達氏と南奥羽の諸大名との間には、すでに七月に和睦が成立しており、しかも、これは、間接的には豊臣政権による影響は見いだされるものの、あくまでも南奥羽諸氏の自己規制によるものであるという(粟野俊之「戦国期南奥羽における伊達氏包囲網について」地方史研究協議会編『流域の地方史―社会と文化―』一九八五年 雄山閣出版刊)。これによると、家康が関与する以前に「惣無事」が成立したということになる。
すなわち、南奥羽を直接の対象とする、奥羽の惣無事令には、家康の関与が見いだしがたく、もっぱら富田知信(とみたとものぶ)が担当し、天正十三年(一五八五)秋に秀吉の使者として奥羽に下向した経験を持つ、金山宗洗(かなやまそうせん)がその使者として派遣され、執行されたという(粟野前掲「東国「惣無事」令の基礎過程―関連史料の再検討を中心として―」)。
このように、奥羽をめぐる惣無事令の評価については、新たな展開を迎えているようである。少なくとも北奥羽の地域については、現在のところ、惣無事令が伝達された形跡はみえないようである。使者として派遣された金山宗洗の活動も、相馬・白河・山形・庄内・米沢といった地域であったようである。もちろん、北奥羽の地域が、これとまったく無関係にあったとは思われない。次に、このころの北奥羽大名の様子についてみてゆくことにしよう。