有史以来最大級の大量死

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三年(一七八三)に起こった天飢饉は、近世日本において最大の被害を出した飢饉であった。とりわけ北奥諸藩では大量の餓死者を出し、「明治維新前では戦乱や他の自然災害を含め、日本列島上における有史以来最大級の大量死であった」(菊池前掲書)とまで形容されている。水田単作地方の津軽弘前藩は、周知のとおり最も飢饉の被害が大きい藩の一つであった。藩の公式記録の「国日記」によると、天三年九月から翌四年六月にかけての餓死者は八万一七〇二人、うち在方の被害が際立っていて、七万人近くを数える。弘前に置かれた施行(せぎょう)小屋で力尽きて命を落とす者も少なくなかった。当時の藩の農村人口が約二〇万~二五万人と推定されるので、人口のほぼ三分の一が失われたことになる。他の北奥諸藩も同様で、史料によって違いはあるが、盛岡藩は約四万余、仙台藩は一四万~一五万、八戸藩は約三万人の餓死者を出しており、東北全体からいうと三〇万を越える死者が出たとみられる(表31)。津軽弘前藩の人的被害は人口比からすると、領民の半分が亡くなった八戸藩に次ぐといってよい。今日でも津軽の各地方にみられる天飢饉供養塔、飢民が倒れたという「ほいど坂」、餓死者を大量に埋めたという「いこく穴」などの伝承、これらが飢饉の記憶を現在に伝える。近世日本は五〇年後に再び天保の飢饉を経験するが、天飢饉飢饉の代名詞として、後世に語り継がれていったのである。
表31 天飢饉における東北諸藩の死者
藩名期間など餓死者数など出 典
弘前藩3年9月~
4年6月
8万1702人
(4496人)
(4503人)
(3026人)
(6万9677人)
飢渇死亡
 弘前城下
 九浦
 施行小屋
 在々
「御国日記
3年春~
4年2月
6万4000人餓死津軽歴代記類
(佐藤家記)
3年10月~
4年8月
10万2000人
3万人
8万人
餓死
時疫
他国行
「天癸卯年所々騒動留書」
八戸藩4年5月宗門改3万105人餓死・病死「天日記」
4年2月晦日9374人
2万8224人
死絶・立去
助米必要人数
「御勘定所日記」
盛岡藩代官所調査4万850人
2万3848人
3330人
餓死
病死
他領立去
『南部史要』
過去帳推計(岩手県)9万2100人飢饉死者寺院の過去帳からみた岩手県の飢饉
仙台藩14~15万人
30万人
餓死
餓死・疫疾死
「天飢饉録」
過去帳推計(宮城県)20万人飢饉死者『宮城県史』22
中村藩3年初秋~
4年3月15日
4416人
1843人
在々死人
離散
「天救荒録」
4年7月まで合計1万8000人死亡離散