土着対象者は寛政四年令によって上限が二〇〇石以下の知行取家臣、同五年十月二十四日令(「要記秘鑑(御家中在宅御触)」寛政五年十月二十四日条)によって下限が俵子四〇俵三人扶持以上の切米取家臣、金六両三人扶持以上の金給家臣と定められた。享和年間の「家中給禄調」(弘前市立図書館蔵)によれば、知行取が五一六人、切米取が五六四人、金給が五〇九人で、家臣数の合計は一五八九人。このうち土着対象者の基準に該当するものは、知行取が四六八人、切米取が一四二人、金給一九七人で合計八〇七人。家臣団全体の五〇パーセント強に当たる。また、このうち五八パーセントが知行取家臣であり、その過半数以上を占めている。さらに知行取家臣のみについてみると、計五一六人の内二〇〇石以下の家臣は四六八人であり、知行取家臣の実に九一パーセントが在宅を命じられたことになる。
知行取家臣の収入は基本的には、給地百姓からの直収納(じきしゅうのう)によって賄われることになっており、その意味では、藩財政からの切り離しが企図されたと考えられる。また、寛政四年九月には切米取家臣に対し、また同六年閏十一月には金給家臣に対して、開発地が三〇人役に満たなくても、すべて知行取に召し直されることになり(「要記秘鑑(御家中在宅御触)」)、この方針を補強する形となっている。したがって、知行取家臣と給地とのかかわりから必然的に地方割が土着の主要な課題として設定されることになり、次に述べるように土着対象地が家中成り立ちの観点から選定されたことと深く関係してくることになる。なお、下限設定の理由は、在宅しても勤務交代の際の人馬工面などに差し支えては、かえって不都合であるからとされている(同前寛政五年十月二十四日条)。これもまた、家中成り立ちへの配慮としてとらえることができよう。
ところで、このような土着対象者の設定を、いわゆる勤仕の観点からもみることができる。それは、土着策の結果、弘前城下に残留を許された家臣は、上級家臣のごく一部(知行取家臣の一割)と、下級家臣のみであり、そしてそれは、勤仕に関するその後の法令からすると、執行部を構成する藩士と、日常的に藩政を運営するための最低限の人員を残したものとすることができる。つまり、土着を命じられた藩士は、一部、交代で勤仕に当たる者を除いて藩政から切り捨てられたのであり、余剰人員の整理がその目的の一つであったといえるのである。ただし、彼らに給地を与え、給地百姓からの直収納を許可することによって、藩士財政を拡大させ、結果として藩庫からの支出を押さえようとしたことに変わりはない。
なお、在宅戸数は正確に把握することは難しく、しかも下限以下であっても既に在宅済みの者や、希望者に対しては許可している(「要記秘鑑(御家中在宅御触)」寛政五年十月二十四日・同六年一月二十日条)ところから、流動的ではあるが、寛政七年三月調査の「御家中在宅之族村寄」(資料近世2No.八五)などから判断して、全体として八〇〇戸から一〇〇〇戸程度の在宅戸数と考えられる。