寛政四年(一七九二)二月、弘前・九浦へ人返し令が発せられた(資料近世2No.六六)。その対象は、天明元年(一七八一)以降に町方に引っ越してきた者すべてであるが、そのほか弘前・九浦および在方の「小商人遊食之類」も対象としている。天明飢饉による混乱と、百姓が在方を引き払って商人となったり、店商売や触売(ふれう)りを兼業する百姓が年々増加している状況を克服し、農村人口の確保・増加によって、開発高を増加させようとしたのである。「潰家業」の理由としては、帰農させることのほかに、兼業の場合、通常の百姓と違って華美となる傾向にあることや、天明飢饉で多数の死者が出たにもかかわらず商人ばかりが多ければ、買う者が少ないわけであるから、利潤も少なく商家自体が困窮していくことなどが挙げられている。
農村人口の増加を目指した城下等からの人返し、および「潰家業」の設定は、土着藩士への給地百姓の割り付けや、弘前城下の縮小再編成と密接に結びついているといえよう。
このほか、引っ越し者の在方での受け入れ方法や、手当金等の諸援助についても種々講じられ、また荒田開発における年貢や郷役の免除についても明確にされている。
さて、この人返し令と同一線上にあるのが、他領への出稼ぎの制限であり、前述した他領からの呼び戻し策および人寄せである。特に他領稼ぎについては松前稼ぎが日常化している状況下では、その対応はひととおりではいかないものがあった。
「国日記」天明七年十月七日条(資料近世2No.二七~二九)などからは、松前表への鰊割(にしんわり)や鰊漁への出稼ぎを禁じているにもかかわらず、実体としてはそれが守られていないことが読みとれる。また、同寛政十一年二月二十四日条では、人別改めにおける「出奔(しゅっぽん)」数の増加の理由として、生活難渋のために松前へ「五ヶ月・七ヶ月」のつもりで出かけたものの、滞在を延期して翌年の人別改めまでに居村しなかった者を加えているからとし、さらに数年して帰村した場合は「他領者」の名目で帰住させている旨、記されている。また、蝦夷地警備にかかわって助郷役(すけごうやく)などが課された海辺の地域では「自然農業行届ふ申」(「国日記」寛政十三年二月九日条)として、藩が幕府役人の通行ルートの変更を求める状況等も生じている。これらは、藩が、藩域を超えて展開している労働関係が大量に存在し、しかも長期間にわたっていること認識しつつ、農民の生活を成り立たせるためには、やむをえないものとして事実上黙認していることを意味している。百姓の成り立ちと領内の人不足という矛盾のなかで、藩の苦悩がここにみられる。
人返し令の限界には、他国からの人寄せにみられるような、単に必要な人数の確保という点だけではなく、百姓成り立ちにかかわって、領外への出稼ぎを黙認せざるをえないという状況があったのである。