津軽弘前藩の対策は、ひたすら「買〆米(かいしめまい)」と呼ばれる領内各地の豪農・豪商層が持っている余剰米の買い付けや、相変わらずの御用金に頼るしかなかった。天保七年の凶作では、御救米を一人当たり籾で三合を支給したが、「窮民への対応は藩では行われず、組ごとに代官に任せ、重立(おもだち)より差し出させるように命令された」と『永宝日記』が述べるように、実際は藩庫からの救済を放棄し、結局、豪農たちに転嫁したのである。「お上(かみ)の御救をあてにするのはもっての外。なぜなら打ち続く不作でお上に貯えもないからだ」と、『永宝日記』の筆者も諦めの境地である。このような中で年貢の取り立ては容赦がなく、春になって家を捨てて逃散するものが続出したという。翌天保八年の春にも夫喰米(ぶじきまい)の支給を彼らに負担させている。
同年の暮れには米の自由な販売を一切禁じ、藩の買上役人が買い上げて、藩の指定した米穀商人に販売を独占させる買米制を採用したが、一年も持たず失敗した。天保九年にも、年貢の減免措置は行われたものの、全面的な免除や翌年までの納入延期は認められず(「国日記」天保九年十一月二十九日条)、十二月中旬になっても半分しか上納できなかった者は、郡所(こおりしょ)の手代が村々へやってきて厳しく詮索し、田畑・家財道具まで売って納めさせたという(『永宝日記』)。一方、労働力が不足する農村には、弘前にいる袖乞いの者を、一日一合五勺の手当を与え、強制的に帰農させて、田畑を耕作させようとした。
天保十年は『永宝日記』によると、「午ノ年(天保五年)ノ宝(豊)作ニ増程ノ宝作」で、「天道ノ御助ト国中大悦ニ候」とあるが、実際は数年来の凶作で廃田も多く、虫害もあり決して平年作といえない状況であった。この年にも藩士の俸禄の歩引が実施されている。翌十一年は豊作となり、ようやく作柄も回復してきた。しかし、八月になっても、一部には登穂がなくて「大さわぎ」となり、米価も上昇したことから、他散する者が続出したという(『永宝日記』)。飢饉の恐怖に追われ続けた津軽の領民は敏感であった。