天保四年の大凶作では、藩が困窮者救済のために領内の農村へ施行小屋を一一ヵ所設置した(「国日記」天保四年十月十九日条)。さらに衣服が薄着のため凍死しないようにと、布子(ぬのこ)(木綿の綿入れ)などを藩の御蔵および城下・農村・九浦(深浦・鰺ヶ沢・十三(とさ)・青森・蟹田・今別(いまべつ)の六湊と碇ヶ関・大間越(おおまごし)・野内(のない)の各番所からなる)の富裕者から差し出させている(同前天保四年十一月七日条)。
翌年になると、秋田領から津軽領に飢えをしのぐため逃れてくる者がしだいに多くなってきた。そこで藩では楮町の畑地に三間に一〇間(三〇坪)の施行小屋を建て、領内を徘徊している者を一人残らず当分の間ここに収容することにした。彼らには一人一日当たり混ぜものを加えた一合五勺の粥を炊き出し、秋田領の出身地・一族の名前・本人名などを記した人別帳を作成し、死亡した場合には和徳村の専修庵(せんしゅうあん)(現専修寺、市内東和徳町)に仮埋葬することを命じている。その後さらに逃亡してくる者が増えたので、彼らを白道院(びゃくどういん)(現廃寺、市内新寺町遍照寺(へんしょうじ)隣にあった)に収容し、その取り扱いのために新たに町同心四人が命じられている(同前天保五年四月十四日条)。
図16.専修寺の餓死供養題目塔
一方、津軽領内の村役人や町役人に対し、領内の農村や町から飢えた袖乞いの者が出ないよう厳しく申し付け、それでも出た場合には、罰金として人夫を差し出させることにしている(同前天保五年八月二十一日条)。
このように、城下のみならず、農村などでも袖乞いの者が流浪して盗みなどの行為を働き、社会不安を増大させることのないよう努めていることが知られよう。
津軽領において、このような大凶作の後の大飢饉では、農村の下層民(水呑百姓など)はなんとか生き延びるために、他藩領に逃げ出した者以外は、領内の城下へ流入してきたのである。彼らは出身地の村の親類・縁者やその村による救済がなければ、城下に流入して救済を求めるか、盗みや強盗などの犯罪行為で飢えをしのぐほか手段はなかったであろう。城下に住む下層民(日雇など)も同様に、飢えをしのぐために犯罪を犯さざるをえなかった。これに対して藩の対応策の中心は、施行小屋を建てて救済することであったが、一時的な解決策にすぎず、根本的解決策にはならなかったのである。