民衆の精神世界

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歴史には実に多くのカルト的逸話(いつわ)や憑依(ひょうい)・怪奇譚(たん)などが記録されているが、変革期にはそれが増加するように思われる・明治近代社会の実現を直前にしたこの時期にも様々な話が伝えられているが、そのひとつに妄言(もうげん)を唱える瞽女(ごぜ)の記載がある(資料近世2No.四九一)。文久三年(一八六三)十二月、悪戸(あくど)村(現市内悪戸)の瞽女が在方町方を問わず「産神」に事寄せて色々な神の託宣(たくせん)を言いふらし、人々を不思議がらせているので、師匠に身柄と道具を預け、他出差留(たしゅつさしとめ)(外出禁止処分)にするという内容で、記述が簡略なためそれ以上の詳細については不明である。瞽女とは多くの場合、三味線などを持ちながら各地を遊歴する盲目の女性芸人で、イタコ同様、幼いころに師匠に弟子入りし、厳しい修行を終えた後、独立を許された。日本の瞽女としては越後(現新潟県)の高田瞽女が有名だが、近世には各地に瞽女の集が存在した。彼女らは盲目、遊歴といった常民(じょうみん)とは異なる特色のために身分制社会の周縁(しゅうえん)に置かれ、差別や偏見に苦しめられたが、一方では常民には備わっていない能力を持つ者ともみられた。
 この瞽女が事寄せたとする「産神」が悪戸村のいわゆる産土(うぶすな)神(守護・鎮守神)なのか、文字どおり多産・生殖を司る神なのかはわからない。もし、後者であった場合はいかにも性的な言動や儀式などと結びつきそうである。そうでないとしても、一介の瞽女が藩の宗教組織や祈祷システムを超越して公然と託宣を言いふらし、人々の好奇を集めている点は、藩の規制がもはや通しないことを露呈している。
 また、これに類似したような話が存在する(同前No.四九三・四九四・四九五)。慶応二年(一八六六)三月、東長町(ひがしながまち)に借家をしていた常吉という者が、「大平神(たいへいしん)」という神を祀り、色々な妄言(もうげん)を唱えて人を集め、人気を得ているという。藩では昨年四月に摘発を行い常吉に注意をしていたが、今もって態度を改めず、奇怪な神を祀っているのは不埒(ふらち)だとして、「大平神」を取り上げ、神官に預けるように指示を出した。これを受けて弘前八幡宮神官小野若狭(わかさ)は「大平神」六体を預かり、藩の諮問(しもん)に答えて「大平神」とはいかなるものか、調書を提出した。それによると、「大平神」とは神道の様式で祀っているようだが、神道関係の書物には該当するものがなく、もちろん仏体ではないこと、強いていえば道教に由来するようであること、また道教の神でもいわゆる保食神(うけもちしん)(多産・繁栄を司る神)の色彩が強く、蚕や桑の育成に関連が深いこと、その人によりイザナギ・イザナミの神、キクリヒメノミコトとして祀る所もあること、これらのことを答えている。この調書から判断すると、「大平神」とは津軽地方一帯にみられるオシラサマであると思われるが、当時、藩はこの民間宗教の意味がわからなかったのである。しかし問題は藩の許可も得ず、町家で大平遊(たいへいあそび)と称して二体の神を喜ばせ、大勢の人々がそこに集まって口寄せを聞いたり、「大平神」に多大な興味を示していたことであった。
 弘前藩の正式宗教は仏教を別とすれば、岩木山を神体とする岩木三所大権現(現岩木山神社)信仰であり、それ以外は厳しい統制が加えられた。岩木山には往古より霊力を持った鬼が住んでおり、藩祖津軽為信(ためのぶ)の津軽統一事業の際、その霊力で為信を助けたとされていた。以後、岩木山には宮が営まれ、岩木山に祀られた神は藩領と藩主家を護持する存在とされたが、それ以外の民間信仰などは人心を惑わすとして厳禁された。極端な話、町にわき出る清水を名水として利するだけなら問題はないが、病に効能があるなどとされ、宗教色を帯びるようになればその水場は封鎖されたのである。
 よって藩は常吉より取り上げた「大平神」を、邪神として廃棄しても本来は何ら差し支えなかったはずである。ところが、預かった小野若狭はこれを神前に安置し、御酒・御膳を供(そな)えて祀っている。その後約二年間、この「大平神」の扱いについて藩は何の指示も出さなかったが、明治元年(一八六八)十月に萱(かや)町の清五郎という者が町年寄(まちどしより)を通じて「大平神」を返却して欲しいと嘆願書を提出した。清五郎がいうにはこの神は常州(じょうしゅう)水戸(現茨城県水戸市)より飛来してきたもので、すでに六〇〇年余になり、ぜひ自宅に引き取り今までどおり祀りたいという。この話自体がすでに現実離れしており、とても信じられるものではないが、少なくとも藩にはもはや頑迷(がんめい)な町民が邪教淫神(いんしん)を信仰していると一喝(いっかつ)するような権威はなかったのである。